■東京駅の設計者もサッカーを学ぶ

 さて、工学寮の話題に戻ろう。

 工学寮でも教師団は体育教育を行った。工学寮の校舎は霞が関、現在の霞が関ビルディングのある場所にあり、グラウンドは溜池にあった。溜池は江戸城の外堀の一部で文字通り大きな池になっていたところだが、当時は水がない空き地だったようだ(現在は埋め立てられて外堀通りの一部となっている)。

 重要なのは、ダグラス顧問団と違って実際にフットボールの指導を行った人物の名前も分かっていることだ。測量技師のリチャード・ライマー・ジョーンズ。もちろん、彼もスコットランド人である。

 工学寮の一期生の中には日本銀行本店や東京駅を設計した、明治の日本を代表する建築家、辰野金吾博士もいた。あの辰野博士もスコットランド人の指導でフットボールを行っていたのだ。後に大倉土木(現、大倉建設)の会長となった門野重九郎は明治18年頃に工学寮から名を変えた工部大学校で学んでいたが、当時のフットボールは「今日のアッソシエーションの前身とも云うべく其のルールも至って簡単」と回想しているから、サッカーを簡略化したようなものだったようだ。

 もちろん、日本人学生が行っていた簡略化されたフットボールは「スコットランド流のパス・サッカー」と直接的な関係ない。第一、クイーンズパークFCがパス・サッカーを始めたのは1972年のことなのだから……。だが、いずれにしても日本人が初めてサッカー(のようなフットボール)を行った時にスコットランド人の指導を受けていたというのは面白いエピソードだ。

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