伝道の地となった「江戸城外堀」グラウンド【日本スタイルの源流はスコットランドにあり(2)】の画像
サッカーは少しずつ日本中へ広がっていった 写真:サッカー批評WEB編集部

 サッカーを見ていると、表面上の現象だけではなく、その根底を知りたくなる。根底を知ると、歴史を学びたくなる。サッカーを追い続けるサッカージャーナリスト・後藤健生は、深く日本サッカーの源流を追っていく。

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 新政府は西洋式建築の導入に熱心だった。銀座の「煉瓦街」や丸の内の「一丁倫敦」、あるいは政府高官や外国の使節のための社交場「鹿鳴館」が有名だ。諸外国に対して「日本が近代化された」という印象を与えるための象徴的建造物だった。また、鉄道や官営の工場などのためのインフラとしても西洋式建築は必要だった。

 工学寮の教師としてやって来たのはヘンリー・ダイアー校長以下、英国人を中心とした教師団だった。そして、そのダイア―はスコットランドのグラスゴー大学の教授だったのだ。

 前回の記事でも書いたが、グラスゴーは英国の中でも工学の先進地だった。もちろん工学分野には建築も含まれており、グラスゴーは多くの建築家を輩出している。

 サッカー関係で最も重要な建築家がアーチボルド・リーチであることには誰も異論はないだろう。

 1899年にグラスゴー・レンジャースの新スタジアム、アイブロックス・パークを設計したのを皮切りに、スコットランド、イングランドの数多くのスタジアムを設計した建築家である。当初は木造か煉瓦造りだったスタジアムだが、最初のアイブロックスで死傷者を出す事故が起きたことで、リーチは鋼鉄や鉄筋コンクリートといった新しい技術を使ったより安全なスタジアムを目指した。メインスタンドの屋根に飾り破風(ペディメント)が付いたデザインでも有名だ。

 そのリーチもスコットランドのグラスゴー育ちで、自らもレンジャースのファンであり、若い時はアイブロックスの近くに住んでいたという。

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