■近代化の証だった東アジアのオリンピック

 明治維新後に近代化を進め、日露戦争でヨーロッパの大国の一つロシアに勝利した当時の日本人にとって、日本人選手が欧米の選手と戦う姿は日本の近代化の成功を如実に示すものだった。ベルリンで開催されるはずだった1916年の大会は第1次世界大戦のために中止となったが、1920年代に入ると日本はオリンピックで成果を上げ始める。

 1920年のアントワープ大会ではテニスで2個の銀メダルを獲得。1924年のパリ大会ではレスリングの銅メダル1個だったが、1928年のアムステルダム大会では陸上競技三段跳びの織田幹雄、水泳200メートル平泳ぎの鶴田義行が初めて金メダルを獲得。女子でも人見絹枝が陸上の800メートルで銀メダルを獲得した。そして、その後、1932年のロサンゼルス大会、1936年のベルリン大会で日本は数多くの金メダルを取って国民を熱狂させた。

 オリンピックでの活躍は「新興国」にとっては自らの近代化成功の証となったのである。

 それは他のアジア諸国でも同じことだった。

 たとえば、お隣の韓国。スポーツでの活躍は朝鮮民族の力を確認する手段だった。1910年以来日本の植民地統治を受けていた韓国では、日本人に勝つことも重要で、日本のチームとの野球の試合では朝鮮チームが熱狂的な応援を受けたし、1930年代に入って盛んになったサッカーは「日本人に勝てる競技」として人気を高めた。

 1936年のベルリン・オリンピックのマラソンでは孫基禎(ソン・キジョン)が金メダル、南昇龍(ナム・スンリョン)が銅メダルを獲得する。ただし、孫基禎の快挙は民族の誇りとなったものの、彼は「日本選手」として大会に参加していたためにその後さまざまな問題が起こることになる。

 1940年大会は東京開催が決まったが、日中戦争の激化によって大会は返上された(同大会は第二次世界大戦勃発のために中止)。だが、日本は戦後再び東京大会の招致活動を進め、敗戦からわずか19年後の1964年に東京オリンピックを開催した。

 1960年代というのは戦後の復興が進み、日本が高度経済成長に向かって動き始めた時代だった。そうした背景もあって、東京でのオリンピック開催は日本国民にとっては大きな誇りとなり、国を挙げての行事となった。日本国にとっても、またオリンピックにとっても幸福な時代だった。

 それから24年後の1988年には韓国も首都ソウルでオリンピックを開催。この大会も1960年代以来の経済成長の成果を世界に発信する大会だった。また、当時の盧泰愚(ノ・テウ)大統領は軍人出身ではあったが、1987年に16年ぶりに行われた民主的な選挙で選ばれた大統領であり、韓国が民主化に動き出した時期でもあった。

 それから20年後、東アジアでの3度目の夏季オリンピックが中国の北京で行われ、この大会も改革開放路線によって中国が経済発展を遂げたことの象徴的な催しとなった。

 つまり東アジアでこれまでに開かれた3度のオリンピックはすべて、それぞれの国での経済発展の成果を示す大会として大きな意義を持っていたのだ。

第3回につづく
PHOTO GALLERY 東京五輪男子代表18名とサポートメンバー
  1. 1
  2. 2
  3. 3