「日本のオリンピック感情」(2)経済発展の成果を示した3つの大会の画像
いよいよ本番を迎える新国立競技場 撮影/編集部
東京五輪男子代表18名とサポートメンバー
第1回はこちらから 
日本人はこれまで、オリンピックが大好きだった。なぜだろう? 菅総理大臣は国会での党首討論で思い出を熱く語ったが、1964年東京オリンピックが開催された年に生まれた人は今年57歳を迎える。理解できない人も多かっただろう。はたして日本社会はオリンピックに対してどういう感情を抱いてきたのか。それは、これからどちらに傾斜するのか。その変化の様を俯瞰する。

■クーベルタン男爵のアジアへの野望

 そもそも、日本人はオリンピックが大好きだった。それだけに、オリンピックでの活躍はそのスポーツの命運を左右するところがある。

 しかし、東京をはじめとする首都圏で新型コロナウイルスの感染者数が急拡大し、「中止」あるいは「延期」を求める声が多数を占める中で東京オリンピックが強行開催されるのだ。万一、大きな問題が生じた場合、スポーツ界一般に対して厳しい目が向けられるのではないか。それが、心配だ。

 多くの方が新型コロナウイルスに感染して生命を落としており、また医療従事者の方々がぎりぎりの状況の中で懸命に闘っている現在。そして、社会的な標的とされてしまった飲食業や宿泊業等に従事している方々が苦しんでいる最中に「オリンピックだけは特別」とばかりに大会を開催し、水際対策のために感染が急拡大しているインドネシアなどの国からの帰国も儘ならないような状況下に数万人の外国人が入国する。

「なぜ、オリンピックだけが特別なのだ」という声が上がるのは当然のことだろう。

「スポーツには人々を元気にする力がある」と言われるが、それはあくまでも“平時”での話だ。オリンピックに対して批判的な声は高まっているし、そうした視線がスポーツ一般に対して向けられるようになっても不思議はない。

 日本人は、これまでオリンピックが大好きだった。世界の中でも、これだけオリンピックに熱狂する国民はないのではないかと言われている。

 日本が初めてオリンピックに参加したのは1912年のストックホルム大会だった。NHKの大河ドラマでも取り上げられたのでご承知の方も多いだろうが、陸上競技短距離の三島彌彦とマラソンの金栗四三の2人が派遣されたのだ。

 きっかけは、近代オリンピックの生みの親と言われるフランス人、ピエール・ド・クーベルタン男爵が、それまでヨーロッパと北アメリカ諸国だけに限定されていたオリンピックにアジア諸国を参加させようと考え、明治維新後、急速に近代化(西洋化)を進めていた日本に目を向けたことだった。

 クーベルタン男爵は日本側窓口として東京高師の校長、嘉納治五郎に白羽の矢を立てた。

 嘉納は漢学の素養がある上に英語も堪能な教育者であり、また柔道の創始者として知られるなどスポーツや体育教育にも熱心だった。嘉納は東京高師に運動部を設置。その運動部の一つであるフートボール部(後に「蹴球部」)は日本で初めて本格的にサッカーの強化に取り組み、日本におけるサッカーの普及発展の中心となった。現在の筑波大学蹴球部の前身である。

 嘉納は日本にオリンピック・ムーブメントを定着させるにはまさにうってつけの人物だった。

 1909年に嘉納は国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)を設立。1912年にはオリンピック予選会を開催して三島と金栗が代表に選ばれた。この大会は、翌年には「全国陸上競技大会」として開催され、日本陸上競技選手権大会の前身となった。

PHOTO GALLERY 東京五輪男子代表18名とサポートメンバー
  1. 1
  2. 2
  3. 3