■真夏の夕暮れの大発明

 一時はアルゼンチンが試合放棄かという雰囲気もあったが、ラティンが不承不承ピッチを去り、ようやくことは収まった。この大会で審判委員長を務めていたイングランド人の元ワールドカップ主審ケン・アストンは、ピッチに下り、ラティンをなだめてピッチの外に連れ出すという役割を演じなければならなかった。

 混乱はそれだけでは収まらなかった。ラティンが退場処分を受けるのと同時に、イングランドのDFジャック・チャールトンに警告が出されたのではないかと、いくつかのメディアが言い始めたのだ。ジャックの弟のボビー・チャールトンにも警告が出たはずだと言い張るメディアもあった。このため、イングランド代表のアルフ・ラムゼー監督は、試合後にFIFAの担当者をつかまえ、確認をしなければならなかった。ジャックもボビーも警告を受けてはいなかった。

 試合はジェフ・ハーストのゴールでイングランドが1-0の勝利を収めた。ケン・アストンがようやく仕事を終え、車を運転してウェンブリー・スタジアムを出たのは、午後7時を回ったころだった。日没までにはまだ2時間ほどある。7月のロンドンの空はまだ明るかった。彼は自分のオフィスがあるロンドン都心のイングランド・サッカー協会(FA)の本部に向かって急いだ。

 ハンドルを握りながら、彼の頭を占めていたのは、その日のウェンブリーでの出来事だった。イングランド対アルゼンチン、ドイツ人の主審。言葉が通じないなかで、どうやったらすばやく的確に意思疎通ができるのだろうか。土曜日の夕刻、道は空いており、30分ほどで都心にさしかかった。この先の信号を左折すれば、あと数分でFAに着くだろう。日はようやく西に傾いてきたようだ。

 そのとき、信号が緑から黄色に変わり、やがて赤になった。夕刻が近づくなかで、交通信号がはっきり見えた。「そうだ!」。ひらめいた。警告は黄色、退場は赤のカードで選手に示したら、言葉の壁などなくなる。「イエローカード」と「レッドカード」が誕生した瞬間だった。1966年7月23日、午後7時半前後だっただろう。ちなみに、アストンはなかなかのアイデアマンで、選手交代時の「交代ボード」も彼が考案したものだという。

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