「神の子」とそのプレーを称えられたディエゴ・マラドーナが亡くなった。2020年11月25日のことだ。1960年10月30日生まれの「神の子」は、60歳になったばかりだった。1980年代はマラドーナこそが世界のサッカーの中心だった。彼はどんなプレーをし、人びとはどのように彼を迎え入れたのか。数多くの試合を現地観戦してきた筆者が、マラドーナの真実を綴る。
■同時代の目撃者として
2001年にアルゼンチンを訪れた時、ボカ・ジュニアーズとリーベルプレートの「スーペルクラシコ」を観戦したことがある。ボカのホーム、ボンボネーラでの試合だった。両チームのサポーター、インチャたちはヒートアップしていた。
試合が始まって10分ほど経過したころ、メインスタンドにマラドーナが現われた。すると、先ほどまでボカに対して敵対的な言葉を発し続けていたリーベル側のゴール裏スタンドからも一斉に「マラド~ン、マラド~ン……」とマラドーナを称える声が響き始めたのだ。
マラドーナ本人は、スタンドから身を乗り出してリーベルのサポーターたちに向かって罵りの言葉を発し続けるのだが……。
マラドーナとは、そういう存在なのである。
1960年10月30日生まれのディエゴ・アルマンド・マラドーナは、僕より8歳下ということになる。だからこそ、僕はマラドーナをユース時代から選手としての晩年までを(ついでに、代表監督としての姿も)同時代的に目撃するという、サッカー・ファンとしては最高の経験ができたのである。
たとえば、ペレは僕より12歳も年長だから僕はペレの最晩年しか見ることができなかった。同じように数年年長のフランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフはその成熟期(つまり、1974年のワールドカップ)以降だけしか見ていない。アルフレード・ディ・ステファノなどは、ごく限られた映像しか見ることができなかった。
僕が初めてマラドーナのことを知ったのは、1978年にワールドカップ観戦のためにアルゼンチンに渡った時のことだ。アルゼンチンの人たちは熱心にセサール・ルイス・メノッティ監督率いるアルゼンチン代表を応援していたが、同時に「アルゼンチンには17歳のすごい選手がいるのだ」と異口同音に期待を語っていた。
すでに代表入りも果たしていたマラドーナだが、大会直前にメノッティ監督によってメンバーからはずされてしまったから、この時にはマラドーナを見ることはできなかった。
初めてディエゴを生で見たのは、多くの日本人ファンと同じように1979年に日本で開催されたワールドユース・トーナメント(Uー20ワールドカップの前身)だった。マラドーナとラモン・ディアスのいたアルゼンチンが圧勝したが、中でもマラドーナのプレーはプロ化よりはるか以前の日本のサッカー・ファンに強烈な印象を残した。