■手倉森誠のリオ・オリンピックでの慧眼
16.4%? それがどうした!
2013年に鹿島アントラーズから浦和に移籍した興梠は、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の攻撃的なサッカーのなかで才能を満開にさせ、毎年10ゴール以上を記録するだけでなく、ワントップとしての見事なプレーで攻撃を牽引していた。鹿島時代の2009年から毎年Jリーグ全34試合のうち30試合以上に出場し、常に優勝争いを演じていた。ハリルホジッチはピッチ上のパフォーマンスより数字を信じたのだ。
興梠を「救った」のは、2016年のリオ・オリンピックで日本代表を率いた手倉森誠監督だった。ハリルホジッチに不当な理由で「ダメ出し」された興梠を、彼は熱心に口説いてオリンピックの「オーバーエージ」として参加させたのだ。
打診があったとき、興梠は最初断った。Jリーグで優勝争いをしているチームに迷惑をかけることを、彼は何よりも避けたかったからだ。しかし熱心な手倉森監督の説得に、「世界の舞台で戦う最初で最後のチャンス」と決断した。
リオ大会ではナイジェリア、コロンビア、スウェーデンと対戦し、1勝1分け1敗。興梠の得点はナイジェリア戦でのPKによる1点だけだったが、浅野拓磨、南野拓実、中島翔哉といった、後に日本代表の攻撃の中心となる若いタレントたちの力を引き出す見事なリーダーぶりを示した。大柄な相手DFが背中からドンと当たりにくるのを、まるでクッションのように吸収して無力化させ、ボールを収め、自在にさばいて若くスピードあふれるアタッカーたちを躍動させた。
本来、この大会の日本U-23代表のエースは、この秋には日本代表の攻撃の切り札となる久保裕也と見られていたのだが、所属クラブが大会直前にストップをかけ、出場できなかった。だが興梠の活躍がその穴を忘れさせた。
この大会、興梠は「メンタル的にもフィジカル的にもピークだった」と語っている。そこには、2008年から2010年にかけて岡田武史監督に継続的に招集されながら最終的には「メンタルが弱い」と切り捨てられた興梠の「弱さ」はなかった。このときのコンディションであれば、ワールドカップでも日本代表の攻撃を牽引する活躍ができたに違いない。ワールドカップは4年にいちど。そうしたタイミングに恵まれなかったのは、興梠にとって、そして何よりも日本のサッカーにとって大きな不運だった。