■ペトロヴィッチのもとでワントップとして成熟
興梠慎三は1986年7月31日宮崎県宮崎市生まれ。小学校5年生のときにサッカーを始め、最初に出た試合でいきなりハットトリック。地元の鵬翔高校で活躍して年代別の代表に選ばれ、2005年に鹿島アントラーズに加入した。当時、多くのJリーグのスカウトが「ことしの高校生でナンバーワン」と評価していたという。本田圭佑や岡崎慎司より上と見られていたのだ。
鹿島では選手層の厚さで彼が得意としていた「攻撃的MF」というポジションを得るのが難しく、FWに。高校時代まではスピードを生かしたドリブルで中盤から一挙にゴールに迫るというタイプだったが、ここで相手を背負ってボールを受けるというプレーを身につける。そして徐々に出番を増やし、3年目の2007年にはレギュラーに近い位置を獲得、初得点も記録する。パートナーは柳沢敦からマルキーニョス、さらに後には大迫勇也へと変わったが、味方を生かしつつ点を取るというスタイルは年とともに磨かれた。
そして2013年に浦和に移籍。鹿島加入時と同様、このときも複数クラブからのオファーが競合したが、「最初に声をかけてくれたのが浦和だった。そして対戦したときに最もやりづらく、同時に最も魅力的なサッカーをしていたのが浦和だった」と、浦和への移籍を決めた。興梠獲得に最も熱心だったのは、浦和2年目で優勝争いにからませるべくFWの補強を優先させたペトロヴィッチ監督だった。
鹿島のころのプレーを見て、けっして大きいとは言えない興梠は、ペトロヴィッチ監督の「3-4-2-1」システムでは「シャドー」と言われる2列目タイプの選手と、私は思っていた。ペトロヴィッチ監督も最近は「私の理想のワントップ」と語っているが、当時「9番(センターフォワード)タイプの選手が必要だったのではないか」と問うと、「そういう選手を買うには資金が足りないんだ」と暗に認めていたのだ。
前年は「ウイング」タイプの原口元気がワントップを務めた。この年は興梠がワントップにはいり、原口は「シャドー」となった。興梠は「最前線のプレーメーカー」あるいは「ペナルティーエリア内のプレーメーカー」となって浦和での1年目から周囲の選手たちを実に見事に使い、チームにリーグ最多の66得点をもたらした。そして同時に、自らも13ゴールを記録、鹿島での最多得点(2009年の12得点)を抜いた。
翌2014年にはイングランドのサウサンプトンから日本代表FW李忠成が移籍し、興梠は待望の「シャドー」となった。しかし李はヘディングや強さ、献身的な守備などいくつもの長所をもっていたものの、ペトロヴィッチ監督3年目で熟成の段階にはいっていた浦和のハイテンポのサッカーには異質で、やがて興梠がワントップにはいり、李が出場するときにもシャドーの役割を任されることが多くなる。そして興梠はワントップとしてのプレーをかつて誰も到達したことのないレベルにまで熟成させていくのである。