■マデイラ島から来た少年
僕の目の前には18歳と19歳の若者が座っていた。今から17年前、2003年4月のこと。場所はポルトガルの首都リスボンからテージョ河にかかるヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡った対岸、アルコシェテにあるスポルティング・リスボンのトレーニング・センター「アカデミア」のクラブハウスだった。コルク樫の樹林を抜けて、リスボン市内からは小一時間のドライブだ。今は、この辺りもアウトレットができたりして、だいぶ開けてきたらしいが、当時は本当に何もないところだった。
18歳の快活そうな若者は大西洋に浮かぶマデイラ島の出身なのだと語りだした。
「地元マデイラであった大会でプレーしていたら、スポルティングのスカウトが見ていてくれて、12歳の時にインファンティス(U-12)に入ったんだ。当時はまだ「アカデミア」はなかったから、アルヴァラーデ(スタジアム)のそばの練習場にある合宿所に入った。地方出身の子たちと一緒にね。みんな良くしてくれたけど、最初は親に会いたくて泣いていたこともあったな。島とは気候も違ったし、自分のマデイラ訛りも気になっていたんだ」
19歳の若者は、逆に、ひどく内気そうに見えた。
「僕は子供の時はアルヴァラーデの近くに住んでいて、父親もスポルティングのファンだったんで、8歳の時にエスコリーニャ(サッカー・スクール)に入ったんです。その後、遠くに引っ越したけど、家から船とバスを乗り継いで1時間かけて練習に通いました。マデイラ島から来たロナウドは慣れるまで大変そうだったですね……」
19歳の若者の名はリカルド・クアレスマ。そして、クアレスマが「ロナウド」と呼んだ若者はクリスティアーノ・ロナウドという名前だった。
『サッカー批評』第19号の取材でポルトガルを訪れた僕は、名門スポルティングが近代的なトレーニング・センターを建設したばかりだというので、その見学にやって来たのだ。育成担当コーチの話を聞いた後、選手の話も聞きたくて、広報の女性にお願いしたら、当時クラブの期待の星だった2人がやって来たのだ。
当時、ポルトガルのサッカー界は一大転換期にあった。2002年の日韓ワールドカップではまさかのグループリーグ敗退に終わり、その後、ブラジル代表監督としてワールドカップで優勝したフェリペ・ルイス・スコラーリを監督に迎え、翌2004年に地元で開催される欧州選手権(EURO)での優勝を目指していた。
一方、クラブレベルではジョゼ・モウリーニョという若手監督が率いるFCポルトがヨーロッパの舞台で躍進中で、すでにUEFAカップで決勝進出を決めていた。僕も、つい数日前に準決勝のラツィオ(イタリア)戦を大雨の中で観戦し、モウリーニョ監督のインタビューをしたばかりだった。
ポルトは、結局、この年のUEFAカップで優勝。さらに翌シーズンはチャンピオンズリーグで旋風を巻き起こし、モナコを破ってヨーロッパの頂点に立つことになった。