中東の雄・サウジアラビアやカタール、そして我らが日本代表が威信をかけて激突する現代の「AFCアジアカップ」。だが、記念すべき第1回大会に日本の姿はなかった。サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之の「超マニアックコラム」。第2回は、鳩山一郎内閣が率いる昭和31年の日本が直面した「究極の二択」と、断崖絶壁で「タダ見」客が絶叫する香港のガバメント・スタジアムで繰り広げられたカオスすぎる熱戦をひも解く!【第2回/全3回】
■ 五輪かアジア杯か、日本代表が下した「棄権」の決断
さて、第1回アジアカップの予選は地域別に3つのゾーンに分けて行われた、ホスト国・香港を除く19チームの予選組み合わせが決まり、1956年2月25日、「東ゾーン」のフィリピン×韓国(マニラにて開催、2-0で韓国が勝利)で予選が始まった。しかし日本を含む12か国が棄権、予選は結局8試合が行われただけだった。西ゾーンではイスラエルを除く7か国が棄権し、イスラエルは1試合も戦うことなく決勝大会進出を決めた。
日本の棄権は、11月から12月にかけてオーストラリアのメルボルンで行われるオリンピックに集中するためだった。韓国との一騎打ちになったオリンピック予選は6月上旬にいずれも東京の後楽園競輪場で行われ、日本が2-0で先勝したものの第2戦は0-2の敗戦。30分間の「代表資格決定戦」でも決着がつかず、「抽選」の末、日本は1936年のベルリン大会以来2回目のオリンピック出場を果たした。そして海の物とも山の物ともわからないアジアの大会には参加せず、オリンピックに向けて国内合宿でチームを鍛えたのだ。日本の「アジアカップ軽視」は、その後1988年の第9回大会まで続く。































