大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第173回「日本サッカー夜明け前の日本代表監督とアルゼンチン代表」(4) 会談後の加茂周の評価と3年後の「スター」の獲得、リバプール撃破で「クラブ世界一」にの画像
Jリーグ以前、プロ化を渇望した日本代表を率いた名将と、日本サッカーに夢を託したトヨタカップの覇者がいた。撮影/原壮史(Sony α1使用)

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような超マニアックコラム。今回は日本サッカーの「夜明け前」。

■「リーダーシップ」をとれる選手

「話してみましょう」と約束したものの、私は「さてどうしたものか」と考えていた。こういう話なら、読売クラブかなと思った。しかし、そのとき加茂周さんの顔がひらめいた。そうだ、あの人なら、建設的な話をしてくれるかもしれない―。

 そうして実現したのが、その年の12月、トヨタカップでインデペンディエンテが来日した際の、宿泊ホテルでのマランゴニと加茂さんとの会談だったのだ。

 加茂さんは若い頃から英語が得意で、マランゴニとの会話は非常にスムーズに進んだ。仲介した私は、加茂さんの横に座り、終始黙っているだけだった。もちろん、メモなど取らない。2人が何を話したか、今となっては何の記憶もない。

 加茂さんはマランゴニをとても気に入ったようだった。

「会ってみると、リーダーシップをとれる選手であることがわかった。サッカーの実力と国際的な経験は問題ない。練習から私生活にわたるまで、プロとして打ち込む姿もすばらしかった。いろいろな面で、若い選手たちの生きた手本になると確信した。彼が英語を話すことも、直接コミュニケーションするという面で好都合だった」(加茂周『モダンサッカーへの挑戦』1994年、講談社)

 だが残念ながら「日産背番号5マランゴニ」は実現しなかった。加茂さんは、日産自動車サッカー部を管轄する厚生課長だけなく、人事部長、担当常務まで、いろいろなレベルの人に「マランゴニを取りたい」と話したという。残念ながら結論は「もう少し待て」だった。しかし加茂さんのその姿勢が、1987年、マランゴニ以上の「ビッグネーム」である元ブラジル代表主将でDFのオスカー獲得につながる。

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