「なぜ釜本邦茂が日本最高のストライカーなのか?」追悼の激論(2)ブラジル人も認めた「別格」の存在、元古河電工監督が驚いた「シュート力」の画像
ラモス瑠偉らブラジルから来た選手たちも、釜本さんの才能をリスペクトしていた。撮影/原壮史(Sony α1使用)

 メキシコ五輪で「アジア人初」の得点王。国際Aマッチで「歴代1位」の76試合75得点。日本サッカーリーグでも「歴代1位」の251試合202得点。日本サッカー界最高のストライカーといわれた釜本邦茂氏が亡くなった。これらの記録だけでも、そのすごさは分かるが、1983年に現役を引退した同氏のプレーを、実際に見た方は、それほど多くはないのではなかろうか? そこで『サッカー批評』では、数えきれないほど同氏のスーパープレーを目撃してきた大住良之氏、後藤健生氏ら大御所サッカージャーナリスト2人に加え、ピッチで対戦した元古河電工の川本治さんに「追悼の激論」を依頼。釜本氏のすごさを語ってもらうと同時に、不世出のストライカーの、これまで明かされることのなかった素顔や伝説、秘話を聞いた!

■弱小チームを「1人の力」で強豪に

大住「僕が初めて釜本さんを見たのは、1967年の9月に国立競技場で行われた日本サッカーリーグの東西対抗第2戦でした。東洋工業、八幡製鉄、ヤンマーなどが西軍だったんですが、その試合は八幡の選手が東南アジア遠征で不在で、西軍の選手は東洋とヤンマーだけ、つまり東洋プラス釜本、というようなチームだったんです。東軍は三菱重工、古河電工とか強いチームの選手がそろっていたんですけど、西軍が6-2でコテンパンにしました。釜本さんはそのうち3点を決めたんです。もしも東洋工業に釜本さんが入っていたら、とんでもなく強いチームになっていただろうな、と当時は感じました」

後藤「もしかしたら2部に落ちるんじゃないかというくらい弱かったヤンマーを、自らのプレーで強豪に変えた釜本さんですからね。4連覇中の東洋工業に入っていたなら、そりゃあ強いチームができたでしょうね。その東西対抗からは随分、後になるけど、日本リーグ選抜という大勢のブラジル人の中に釜本さんが入ったチームもすごかったよね」

大住「あったね。1979年くらいだったと思うけど、日本リーグ選抜として何試合かしたよね。ラモス瑠偉とか、ジョージ与那城といったブラジルから来た選手たちが、釜本さんと一緒のチームで試合をやりたがったんだよ。実際にすごくうれしそうで、釜本さんにパスが渡ってシュートが決まると、本当に喜んでいたよね」

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