■左足のキック上達のために「左手」で箸

 京都・山城高校時代の釜本さんは、もちろん超高校級のCFだったが、シュートは右足だけでスピードもなく、デットマール・クラマー特別コーチは「熊」と呼んでいたそうだ。

 高校生相手ならそれで十分に勝負できたのだろう。

 だが、日本代表に入ってそれだけでは通用しないことを自覚した釜本さんはペンデルボール(ポールからロープでボールを吊るしたヘディング練習器具)相手にヘディングを鍛え、左足のキックがうまくなるように食事のときに箸を左手で持つ生活をして、新しい武器を手にしていった。

 早稲田大学から、日本サッカーリーグ(JSL)に関西から唯一参戦していたヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)に入団。ヤンマーは2シーズン目を前にした1968年1月に釜本さんを西ドイツのザールブリュッケンに留学させる。

 釜本さんは、ザールブリュッケンでユップ・デアバル監督(後に西ドイツ代表監督)の指導を受けてゴール前でのスピードを身に着けて得点力をさらにアップ。同クラブにあった1966年ワールドカップの得点王エウゼビオ(ポルトガル)のフィルムを擦り切れるほど見て、立ち足をボールより前方に踏み込む独特のフォームを手に入れた。

 こうして、ストライカーとしての完成度を高めて臨んだ1968年のメキシコ・オリンピックで釜本さんは7ゴールを決めて得点王となり、銅メダル獲得に大きく貢献した。

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