■リップサービス「まるでなし」
1931年生まれのグランヴィルは、昨年12月に100歳を目の前にして亡くなった賀川浩さんより6歳ほど年下だった。グランヴィルにとっても、自分より年上のジャーナリストが日本からやってきて、しかもサッカーに対する深い知識と洞察力とともに、限りなく優しい人間性を持っていることに感激したに違いない。彼にとって賀川さんの存在は「ありがたい」ことだっただろう。
賀川さんは「ブライアン」と呼び、グランヴィルは「ヒロシ」と呼んでお互いに言いたいことを話しながら、2人はとても楽しそうだった。グランヴィルは賀川さんを「小さな兄」のように思い、無条件に信頼していた。だからこそ、大事にしてきた『The Story of the World Cup』の日本での翻訳出版を了承したのだろう。
日本・韓国共同開催のワールドカップを前に発行されることになった「新紀元社版」の『ワールドカップ・ストーリー』のために1998年フランス大会の章を追加したとき、日本のファンは「グランヴィルが1998年の日本をどう書くのか」と注目したに違いない。しかしグランヴィルは日本語にして500字ほどの「H組」の項で日本の3試合を取り上げているものの、最後のジャマイカ戦では「決定力のない日本は1点を返すのがやっとだった」と、日本のファンへの「リップサービス」などまるでなく、実に冷徹そのものだった。
そしてそれこそ、グランヴィルの真骨頂だった。彼は文章の最後を感動的な言葉で締めくくったり、もっともらしい教訓を垂れるようなことは大嫌いだった。「ファンファーレとともに去っていく人など、ほとんどいない」という考えの持ち主だったのだ。
2023年にジュスト・フォンテーヌ(フランス、1958年ワールドカップ得点王、1大会13ゴールのワールドカップ記録保持者)が亡くなったとき、彼はその追悼文をこんな言葉で締めくくった。
「晩年、フォンテーヌはトゥールーズに移り、そこで2つの衣料品店を経営した。彼はフランスのサッカーくじ委員会の委員にも選ばれ、延期された試合の結果を予想していた」