大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第162回「サッカー史上最高の監督は誰か?」(3)大リーグを「夢見ていた」18歳のスーパースター、未成熟な選手たちに「植え付けた」ボールなしの動きの画像
将来のスターと目されていたものの、オランダのサッカー界に希望を見いだせなかったヨハン・クライフ。当時の夢はアメリカの大地にあったが…。撮影/原悦生

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、世界中が約半世紀にわたって背中を追い続けてきた「モダン・サッカーの父」、ヨハン・クライフを見出した「サッカー史上最高の監督」について。

■「キャッチャーだった」将来のスター

「エールディビジ」が始まってオランダのサッカーが「プロ化」されたといっても、実情は「セミプロ」程度だった。「当時のアヤックスでは、どのプレーヤーも、少額の経費と、ゲームに勝つか引き分けるときに、ちょっとしたプラス・アルファをもらうだけだった。みんなそれぞれ職業を持っていて、ウイークデーには働いていた。私自身もそうだった」と、ミケルスは語っている。

トレーニングは、週に3、4回、夕方に行われた。私の記憶では、当時プレーヤーが受け取っていた金額は、多い人でも1年間にせいぜい1000ポンド(訳注・当時のレートで約100万円)以下だと思う」

 後にミケルスとともにサッカーに革命を起こすヨハン・クライフは、当時18歳で、すでにアヤックスの将来のスターとして期待されていた。しかし、「セミプロ」状況のオランダのサッカーに希望を見いだせず、子どもの頃からサッカーとともにプレーしてきたベースボールの選手として、アメリカの大リーグでプレーすることを夢見ていた。彼は優秀なキャッチャーだったという。

 ミケルスはチームを鍛えながら、クラブを真のプロフェッショナルにする大手術に取りかかった。改革の足を引っ張るような者は、選手だけでなく、クラブの理事だろうとメンバーだろうと、断固追い出そうと動き始めたのである。クラブは完全なプロフェッショナルにならなければならず、選手の待遇も大幅に改善しなければならない。サッカーだけでいい暮らしができるようにしなければならない。

 彼はトレーニング時間を変更し、西欧の他のプロクラブのように、選手たちがもっとサッカーに集中できるよう午前中に設定した。そしてサッカーを中心に生活するようにした。これは大きな改革だった。彼自身も、それまでやっていた教師の仕事を辞め、アヤックスの監督という仕事に集中しなければならなくなったからだ。

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