サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは、独裁者が健在だった頃…。
■全国民を恐怖に陥れる「秘密警察」
ルーマニアは「ローマ人の国」を意味し、言葉もスラブ系ではなく、ラテン語から発展したものが使われている。古代ローマからローマ人が支配してきた「ローマの末裔(まつえい)」というのがこの国の誇りだが、現在の住民の大半はスラブ系と言われている。
第二次世界大戦までは「王国」だった。しかし戦後、ソ連に圧力をかけられ、1947年に共産主義の「人民政府」が樹立された。強大な軍事力を背景に東欧の国々を「衛星国」としたソ連は、それぞれの国に役割を与え、ソ連に奉仕させる形をとった。たとえば東ドイツでは、重工業が国家事業として進められ、ルーマニアは「農業国」とされた。
1965年に指導者の地位についたチャウチェスクは「ソ連からの自立」を望んだ。そして当時豊富に産出した石油を生かし、独自に工業化への転換を図った。同時に、西ドイツなど「西側」の国々にも急接近した。しかし10年もしないうちに資金不足や油田・ガス田の枯渇が重なり、工業を守るために一転して「エネルギー輸入」に頼ることになる。輸入先はソ連である。その支払いは「ドル」建てで行われ、ルーマニアは一挙にソ連に対して巨額の負債を負うことになるのである。
「工業化」が進んでもルーマニアの農業は生産力が高く、なかでも野菜は、冬でも豊富に生産できる「温室」が整備されていたため、西ドイツなどに輸出され、多額のドルをかせいでいた。だが、それは右から左へとソ連に流れていく。そうして、本来なら豊かであるはずの国民は、慢性的な「物不足」「食料不足」「エネルギー不足」に苦しめられるのである。人々の不満を政権の危機に結びつかせないために独裁者が考えた唯一の方法、それが「恐怖政治」だった。
人びとは日常的に監視され、検閲され、少しでも「反政府的」な動きがあれば、容赦なく逮捕された。独裁者チャウシェスクは、権力の座についてから5年間ほどはルーマニアの「独立」を求め、自由な雰囲気を許し、人気も高かった。しかし1970年代に入ってから「独裁」の色を濃くし、厳格な「国家主義」で国民を抑圧した。ソ連の「KGB」を模した秘密警察「セクリターテ」は、全国民を恐怖に陥れていた。1986年9月は、そうした時代の真っただ中だったのである。