■事故後初めての「日本人学校の運動会」

「明日、日本人学校の運動会があるので来ませんか」

 重要な話の数々に礼を言い、帰ろうとした私たちに、日本人商社マンが思いがけないことを言った。翌日は昼過ぎにステアウアのクラブハウスを訪ねる予定になっている。私はためらったが、商社マンの次の言葉を聞いて迷わず「行きます」と応えた。

「実は、子どもたちは、半年以上ぶりに外で遊ぶんです」

 この年の4月26日、ソビエト連邦ウクライナ共和国(当時)のチェルノブイリ(現在はチェノービリと表記される)で恐ろしい原発事故が起こり、全欧州を恐怖に陥れた。東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故の10倍規模という大惨事である。ブカレストはチェルノブイリの南南西約820キロ。東京から下関(山口県)あたりまでの距離である。しかし、子どもたちは極力外出を禁止された。その事故後初めて、日本人学校の生徒たちが外で走り、遊ぶというのだ。

 やや寝坊してしまった私たちが教えられた市営のグラウンドに到着すると、運動会はもう真っ盛りだった。一時は100人を超していた日本人学校の生徒も、ルーマニアとの貿易(日本は鉄鋼を輸入し、工場プラントなどを輸出していた)が年々縮小し、このころには20人あまりとなっていた。しかし、父兄もそろって参加し、元気な歓声が飛んでいた。

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