父と二人三脚で励んでいた権田

――当時から目立っていたんですね。

 はい。田中選手の世代の監督から聞いた話では、彼が小学2年生の時、チームが招待された大会があって、その大会のとある試合でゲーム開始直後に、彼が「監督! こいつら強い!」って対戦相手のことを指して叫んだことがあったそうです。実は、その対戦相手は強豪チームで、監督も少し時間が経ってから相手の寄せの早さに気づいて、はじめて強豪だと確信したそうなんですが、田中はそれを一瞬で見抜いてしまった。そして、すかさずドリブル突破からゴールを決めて、「みんな守れ!」とチームを鼓舞し、結局、その試合に勝利できたそうです。当時から、攻守に活躍するすごい選手でした。

――GKの権田選手は、プロになってからもクラブに顔を出されることもあったそうですね。

 FC東京時代に来てくれました。その時は、子どもたちの質問会を開いた後に、一緒にミニゲームをしてくれましたね。子どもたちも大変喜んでいましたし、本当にありがたかったです。

 彼は、小学2年生から徐々にキーパーをするようになり、完全にポジションを固定したのは3年生からだったと思います。扇の要で一番後ろからゲームが見られるから、常に声を出して、選手を鼓舞していました。また、印象深いのは、お父様が練習に来ていつも熱心に基本練習をされていたこと。みんながシュート練習をしている横で、親子でひたすらボールを転がしてキャッチするといった練習を繰り返していたのをよく見かけました。

――親子二人三脚で成長されてきたんですね。

 そうですね。お父様がもともとバスケットボールのコーチだったようで、指導面では長けていましたから。サッカーの本をたくさん読んで、どうやって基本を身につけさせようか常に考えられていたのを覚えています。権田選手の世代の監督も、あれだけのゴールキーパーになれたのは、間違いなくお父様のコーチングがあったからだと話していました。

――板倉選手についてはいかがですか?

 板倉選手は1年間しか在籍していなかったので、正直なところプレーの記憶はあまりありません。ただ、小学2年生時の合宿の試合で、2点を決めたら高学年の子に褒められて嬉しかったって、文集で書いていたのを覚えています。また来年も点を決めたいって、意欲を見せていましたよ。

第4回、「日本代表4人の共通点とさぎぬまSCの独自練習法」に続く。

 

さわだ・ひでじ
1958年5月17日、大阪府生まれ。長男のさぎぬまSC加入により、サッカーに携わるようになる。以降、チームの監督を務めるなどし、2004年には代表に就任。のちに日本代表となる、三笘薫、田中碧、板倉滉、権田修一らを輩出した。現在は、川崎市サッカー協会4種役員や宮前区少年少女サッカー連盟委員長も務める。

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