大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第105回「霧にむせぶ夜」(3)「イングランド選抜」に化けたアーセナルと、密かに12人で戦ったディナモ・モスクワの伝説の泥仕合の画像
こんな霧の中で、サッカーをすることは可能なのか (c)Y.Osumi

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、白い魔物のお話。

■威信がかかるアーセナル

 当時アーセナルのスタジアム「ハイベリ-」は北側のスタンドがドイツ軍の空爆で破壊されたままで使えず、試合はトットナム・ホットスパーの「ホワイト・ハート・レーン」で行われた。この試合が濃霧に見舞われたのである。

 当時、ロンドンの霧は、工場から出る排煙や住民が暖房などで出す煙と混ざって黄色く濁り、ひどいときには年に数千人の死者を出すという「公害」だった。「煙(スモーク)」と「霧(フォッグ)」を合成した「スモッグ」という言葉が生まれたのは、この町である。

 数メートル先も見えないという濃霧。しかし5万人を超す観客がつめかけ、試合を中止するわけにはいかなかった。主審はディナモが連れてきたソ連のニコライ・ラティシェフ。ふたりの「線審」はともに英国人だった。

 ラティシェフは当時イングランド協会の事務総長になっていたスタンリー・ラウスが発明したと言われる「対角線審判法」を知らず、2人の線審に同じサイドを走らせ、自分は逆サイドを上下しながら走るという審判法を使った。ラティシェフは英語が話せず、2人の英国人副審は、もちろんロシア語などわからなかった。もっとも、どのような審判法であっても、この濃霧では何も見えなかっただろうが。

 アーセナルは「サッカーの母国」の威信にかけても勝たなければならないと考え、ストーク・シティからFWスタンリー・マシューズ、ブラックプールからFWスタン・モーテンセン、フルハムからDFジョー・バクッツィといったイングランド代表選手を含む6人を補強した。

 バクッツィはチェルシーにも加わってディナモ戦に出場している。「クラブではなくイングランド選抜ではないか」とディナモは抗議したが、ディナモもモスクワのライバルであるCDKA(現CSKA)からリーグ得点王のフセボロド・ボブロフを借り出してきていた。

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