4年後の1962年大会は、1958年のようには運ばなかった。ペレは初戦ではメキシコを相手に勝利を決定づける2点目を決めたが、大会数か月前に痛めていたももを第2戦で悪化させ、途中で退場(当時は交代はできなかった)。発熱もしたため数日間の入院を余儀なくされ、以後出場できなかった。

 しかしペレに代わって出場したアマリルドが次のスペイン戦で2得点して2-1の勝利に導き、以後は1958年大会でペレとともに優勝を担ったガリンシャが獅子奮迅の活躍を見せて連覇を果たしたのである。

 「あのペレがケガをしても、代役でワールドカップが取れる」。これも「王国伝説」にひと役買った。

 だが4年後の1966年大会。ブラジルは手ひどいしっぺ返しを食らう。ブラジルは初戦、ブルガリアを相手にペレとガリンシャがFKを決め、2-0で勝利。しかし2つのFKはペレへのひどいファウルによるもので、ペレは負傷。続くハンガリー戦を欠場する。レフェリングが悪く、相手を負傷させようというプレーも大目に見られていた時代だった。ハンガリー戦は1-3で敗れ、ブラジルは第3戦のポルトガルに勝たなければならない状況となった。

 後のない試合。ペレは右ひざの痛みをかかえて出場したが、ポルトガルの選手たちはペレがボールをもつたびにその右足を狙い、ついに前半途中にひどく痛めてドクターに肩を借りてピッチ外に出なければならない状況になった。右ひざに包帯を巻いてプレーには戻ったが、そこにはもう「王様」ペレの姿はなかった。ブラジルは1-3で敗れ、「王国像」に影を落とした。

 この試合で2点を取ったポルトガルのFWエウゼビオは「新しい王様」「ペレの後継者」と称賛され、「ペレの時代は終わった」と世界の人びとはささやいた。このときエウゼビオは24歳。ペレは「過去の人」のように言われていたが、エウゼビオより1歳しか年上ではなく、まだ25歳だった。

 そしてペレにとって4回目のワールドカップ、1970年のメキシコで、ブラジルとペレは完全復活する。メキシコの暑さのなか、欧州勢はいつものように走ることができず、アメリカの宇宙飛行士のトレーニングを取り入れたブラジルはどの試合で主導権を握った。4年前の反省から選手の安全を守るために改善されたレフェリングもブラジルを助けた。そして3回目の優勝を飾ったブラジルは「王国」の名を確定させ、ペレは「王様」の座を取り戻したのだ。

(3)へ続く
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