ペレが3歳のときに一家はサンパウロ州中央部のバウルという町に移る。ドンジーニョはサッカー選手としての生活をあきらめ、この町で小学校の用務員として働き始めたのだ。そしてペレがサッカーに熱中するのは、この町に移ってからだった。ドンジーニョの失敗を身近で見てきたセレステは、サッカーなどやめて、勉強して教師になれとうるさく言った。
だがドンジーニョは別だった。近所の子どもたちとボールを奪い合って飽きることを知らないペレを見て、彼はサッカーのいろはを教えた。利き足の右だけでなく、左足でも正確にけることが大事だと教えたのは、ドンジーニョだった。また酒やタバコはプレーの妨げになるので、サッカー選手になりたければ絶対にやってはならないと諭したのもドンジーニョだった。ペレはその教えを一生守った。
1950年代から1970年代にかけて世界のトップ選手としての地位を守り、数多くの世界の名手と渡り合ったペレ。しかし彼の永遠のアイドルはドンジーニョだった。1969年、プロ選手として初めて「1000ゴール」を記録したとき、ペレはテレビのインタビューでこう語っている。
「私の父はすばらしいプレーヤーで、私の最初のコーチでした。幼いころ、彼は私にサッカーのすべてを教えてくれました。私は父に心酔しているのです」