■数字は天才に勝てるか

 だが、本当にそうなのだろうか? 数字だけで人間の営みを機械に判定してもらうのが正しい方向なのだろうか?

 現在のサッカー界はテクノロジーの進歩によって大きな利益を得ている。VARの出現によって「神の手ゴール」のような“世紀の誤審”は起こらなくなったし(たぶん)、様々なデータに基づいて試合の分析をすることで試合はレベルアップした。

 だが、所詮、機械は機械。できることには限りがある。たとえば、イビチャ・オシムのような天才が見つめた時にこそ見出されるサッカーの本質を数字から導き出すことなどできるのだろうか。数字にできることは、凡庸な結論をただ素早く引き出すことだけだ。

 遠い将来、量子コンピューターやホログラムによる記憶装置などが発展すれば別だが、現在の「1」と「0」を使ったデジタル・コンピューター(チューリングマシン)は人間の創造性には遠く及ばない。オシムのようにサッカーの本質を理解し、マラドーナのようなパスを出せるコンピューターなど夢のまた夢なのだ。

 カタールの近未来的な高層ビル群だって、実はインド亜大陸やアフリカ出身の労働者の汗と血があってこそ存在しているのだ。まだまだ、機械なんかに世界を任せることはできない。

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