■甲府クラブが成し遂げた偉業

 一方、山梨県の社会人のサッカーをリードしたのが甲府サッカークラブだった。東京オリンピック(1964年)後のデットマール・クラマー・コーチの提言によって日本サッカーリーグが発足したのが1965年。時を置かず、将来的に日本リーグ入りを目指す甲府クラブが誕生したのだ。会社員、会社役員、農業、旅館経営者、調理師、公務員、教員、住職、警察員、学生と、さまざまなバックグラウンドの選手が集まった、純粋なクラブチームだった。

 甲府クラブは1972年に始まったJSL2部の最初のメンバーに選ばれ、以後20年間、2部でプレーし続けた。大企業をバックにしたチームがしのぎを削るなか、甲府クラブは苦闘の時期も長かったが、日本のトップリーグ(JSL1部)に昇格することはかなわなかったものの、韮崎高校を中心とした県下のハイレベルな高校サッカーが選手供給源となり、また目の肥えたファンの厳しい視線のなか、20年間JSL2部の座を守り抜いたのは、ひとつの偉業だった。

 そしてこの甲府クラブを引き継ぐ形でJリーグ入りを目指して1997年に誕生したのが、ヴァンフォーレ甲府だった。1999年には新しくできたJリーグ2部に加盟、初期には存続の危機まであったが、県民を挙げての協力で乗り越え、2006年には初めての1部(J1)昇格を果たす。その後3回のJ2降格と2回のJ1昇格を経験し、2018年以降はJ2で戦っているヴァンフォーレだが、ことしついに「天皇杯優勝」という大きなタイトルをつかんだのだ。

 山梨県のサッカーは、韮崎高校の全国舞台での活躍とともに、地域のシンボルとなった甲府サッカークラブ-ヴァンフォーレ甲府の通算67年間の奮闘とともにあった。そして人口では47都道府県中41番目という小さな県に、チーム一丸となって最後まで粘り強く戦うサッカーの文化を生み、人口比の登録サッカー選手数では全国3位という「王国」を築いた。

 その山梨県に、建設費110~120億円、1年間の運営費5000~8000万円という「フットボール専用スタジアム」は過ぎたものだろうか。私はけっしてそう思わない。そのスタジアムが県民に大きな誇りをもたせ、笑顔にし、試合結果や1ゴール1ゴールの歓喜や落胆などで人びとのハートをときめかせ、「生きている実感」を与えるものなら、さらに、地域の未来を担う少年少女に大きな夢をもたらすものなら、こんなに安い投資はないのではないのかとさえ思う。

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