日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。
■「実態を認める」決断
1977年のJSLで「プロ志向」のチームのひとつであるフジタ工業が初優勝。以後は、三菱重工、ヤンマーディーゼル、古河電工といったJSL創設当初からの大企業のチームが散発的に優勝を飾ったが、同じリーグのなかに、一企業の社員だけで構成された「アマチュア」を標榜するチームと、実態としてはプロそのもののチームが混在し、確実に「プロ志向」のクラブが主導権を握りつつあった。それでも公的には全チームが、そして全選手が「アマチュア」だった。
就任したばかりのJSLの「実行委員会」で、森は「実態を認めよう」と、各チームから出ている実行委員たちに力説した。
「現在の体協の規定により、JFAの登録はアマチュアしか認められていません。だからみんなアマチュアということになっている。しかし読売クラブという実態としてのプロが出てきている。それをリーグの場でお互いに認め合いましょう。それがないと、私は、総務主事としてリーグを仕切っていくことができません」
三菱や古河もプロにしろということではない。ただ、同じリーグのなかで、立場の違いを認め合ってほしいと訴えたのだ。
この「実行委員会」自体、森の働きかけによって前年に誕生したばかりのものだった。当時のJSLは、各企業を代表する「評議委員会」があったが、それぞれの企業では経営者に近い立場の人が多く、現場のサッカー部と十分なコミュニケーションが取れているとは言い難かった。その下に「常任運営委員会」「運営委員会」が置かれていたが、この2つはリーグ全体のための仕事をする役割だった。すなわち、それぞれのチームの立場や利害を代表する人たちで意見をぶつけ合う場がなかったのだ。各企業のサッカー部に近い「サッカー部長」の立場の人で構成される「実行委員会」ができたことで、チームとリーグの関係はいちだんとスムーズに行くようになっていた。