■韓国との違い
創設から四半世紀たち、プロ選手が多くを占めるようになっても、日本の社会一般からのJSLやサッカーへの関心は薄く、新聞のスポーツ面の大きな部分はプロ野球で占められ、スポーツ紙も1面は間違いなくプロ野球だった。読売新聞に限らず、日本の主要メディアがプロ野球の報道をすることで巨大化した歴史から考えれば、当然のことだった。
1968年のメキシコオリンピックをピークに、日本のサッカーは人気(一般の関心)も国際舞台での相対的な強さも下降線をたどっていた。日本代表のメインターゲットはオリンピックとワールドカップだったが、もう20年間もアジア予選を突破できず、世界の舞台に立つことができていなかった。
JSLの人気も低迷した。メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した1968年には1試合平均7491人の観客を記録したが、1977年には1773人にまで落ち込み、その後次第に持ち直して、このころには5000人台まで回復したものの、スポーツ紙をにぎわすには至っていなかった。
1985年には、森の弟である孝慈が監督を務めてワールドカップの最終予選まで到達し、韓国とのホームアンドアウェーに出場権をかけることになった。東京の国立競技場に6万2000人を集めての初戦は木村和司のFKで1点を返したものの1-2の敗戦。ソウルでの第2戦では、相手に圧倒される形で0-1と連敗を喫し、初出場の夢を断たれていた。
韓国はすでに1984年に「プロ化」し、トレーニングの質も量も、そして選手たちのプレー環境や心構えまで変わっていた。プロ化しなければ韓国に置いて行かれるばかり、そして世界から取り残されるばかり―。日本のサッカー界の誰もが危機感をもった。翌1986年にプロ選手の登録が認められたが、それによってJSLへの関心が急速に高まったわけではなかった。