■「プロ」が許されなかった時代

 日本のサッカーに大激震を起こしたのは、1972年に昇格した藤和不動産だった。ブラジルから「元プロ」のセルジオ越後を連れてきたのだ。体協傘下にあり、体協の規定に縛られていた当時のJFAで登録できるのはアマチュア選手だけ。セルジオ越後の登録は物議をかもし、以後、新規登録の外国籍選手は入国してから半年間プレーできないというばかげた規則がつくられた。

 一方、読売は当時の日本リーグ1部にはなかった「クラブ組織」で、登録選手はそれぞれに仕事や学業をもち、サッカーに取り組んでいた。大きな収入が得られたわけではないが、実際には練習に参加し、試合に出ることで報酬が支払われる「プロ」であることは誰もが知っていた。

 1978年に読売がJSL1部に昇格し、たちまち上位に進出すると、プロ的な志向を止めることはもはや不可能になっていた。

 1985年、高橋の総務主事最終年に神戸でJSLの東西対抗が行われた。その試合に選ばれたフジタのMFアデマール・マリーニョ(マリーニョ)とFWジョン・カルロス・カルバーリョ(カルバリオ)が、高橋のところにきてこう言った。

 「神戸まで来たんだから、旅費だけでなく、『手当て』を出してほしい」

 高橋がどう応えていいか迷っていると、そこに釜本邦茂が通りかかった。そして「こりゃ、出したほうがいいでっせ」と、彼らの主張に賛同したという。時代は完全に変わっていたのだ。

(3)へ続く
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