■ついに向き合った「プロ化の承認」

 事務室、会議室とともに、「専務理事室」もでき、JSLはJFAに気兼ねすることなくリーグに特化した仕事ができるようになった。JSLは1992年にその歴史の幕を閉じるまで任意団体で、責任はJFAがもっていたのだが、後の「Jリーグ化」を考えると、「事務局の独立」は、「自主運営」と並び、小さくない「革命」だった。1984年、引退したばかりの釜本邦茂の全裸の写真を使ったリーグポスターが社会的にも大きな話題となったが、それができたのも、自由な発想が可能になった「事務局の独立」があったからだった。

 そして森は、最も重要で、しかも最も困難な仕事に取り組む決意を固める。「プロの承認」である。1986年、高橋が退任し、森は総務主事となる。12年間の「常任運営委員」としての活動、しかも実質的にはそのリーダーを務めての就任だったから、リーグのあらゆることに精通し、同時に、早急に解決しなければならない最重要課題をはっきりと認識していた。

 1965年に誕生したJSLは、1967年には初めての外国籍選手、ブラジルの日系二世・吉村ネルソン(後に国籍を日本に変更)がヤンマーディーゼルから登録された。吉村はブラジル・ヤンマーの従業員となり、「研修」の名目で日本にきたのだが、実際には日系のクラブでプレーしていたところをスカウトされ、ヤンマーを強化する目的で呼ばれたものだった。

 これに端を発して、外国籍選手を登録するチームが出始めた。「将来のプロ化」をうたって1969年に創部された読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)は、1972年にJSL2部に昇格すると、ブラジルから与那城ジョージを呼び、1977年にはルイ・ラモス・ゴンサオフィス・ソブリーニョ(後に国籍を日本に変えてラモス瑠偉)を加入させてチームを強化した。

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