日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。
■JSL事務局の独立
1974年に森が常任運営委員になったときから、各チームから出ている若い「運営委員」を鍛え、「運営のプロ」に育て上げようと努力し、彼らを叱咤激励して育ててきたことは、この記事の「上」の冒頭に書いた。それから4年、森は彼らがそれぞれのチームで責任をもって試合を運営するという「実技」の段階にはいったと考えていたのだ。この「JSLの自主運営」がなければ、Jリーグが1993年に始まったとしても大混乱に陥っていただろう。
森が「この人を助けなければ」と思った慶応大学と三菱重工の先輩・二宮寛は、1976年に日本代表の監督に就任したが、JSL誕生後の日本サッカーで最も選手人材が不足していた時代にさしかかってしまい、1978年暮れのアジア大会(バンコク)のグループリーグで敗退して退任、急きょ、下村が日本代表監督になることになった。
後任のJSL総務主事は高橋英辰。この人も元監督で、1962年まで日本代表監督を務めた後、1960年代の終わりから1970年代初頭に監督として日立製作所を率い、「走る日立」として独自のスタイルを貫き、JSLチャンピオンに導いた人だった。そして初めてリーグに常勤できる総務主事となった。
高橋が就任したときには、JSLの「事務局」は日本サッカー協会(JFA)の事務局内にあった。といっても、JFA自体が日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)が所有していた東京・渋谷の岸記念体育会館の一室を借りて運営している時代。机を20も並べればいっぱいという事務局で、「JSL事務局」は、事務局長を兼ねるJFA職員の机1個分しかなかった。
常勤の専務理事の居場所もなく、会議もままならないという状況で、森は「事務局の独立」を決意する。といっても、大きな資金があるわけではない。当時神田小川町に三菱重工が借りていた小さなビルがあった。1階は旅行会社で、2階から4階を三菱重工が借り、さまざまなプロジェクトの作業場などに使っていた。そこに数年前から三菱重工サッカー部の部室が置かれていたのだが、そのワンフロアをJSLで「また借り」して使うことにしたのだ。