年間予算相当額を1か月で集めたアイディアと、「人を支えたい」という情熱【森健兒さんとはどんな人物だったのか(上)】(5)の画像
今やビッグクラブの浦和だが、前進の三菱重工時代にはわずかな予算で活動していた 撮影:中地拓也

 日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。

■600万円を浮かせた「手作り」照明

 JSL2年目の1966年、28歳の森は背番号6を与えられたが、もう選手でやるつもりはなかった。自ら進んで「マネジャー」となり、練習環境の改善に全力で取り組む覚悟を固めたのだ。

 まずは本郷にある東京大学の御殿下グラウンドを週3回借り、ウイークデーの夜に練習できるようにした。簡単に借りることができたのは、当時このグラウンドには夜間照明がなかったからだ。三菱の練習は隣の東大病院の窓明かりを借りてのものだったが、それでも大きな進歩だった。

 川崎市の東部、JR南武線の平間駅近くに、三菱重工の野球部が使っていたグラウンドがあった。都市対抗に出場する野球部は会社のシンボルのような運動部で、練習は毎日午後だった。御殿下グラウンドと同様、夜は空いている。森はここに目をつけ、さまざまな方面に働きかけてサッカー部の練習に使えるようにする。

 とはいっても、野球部は昼間しか活動しないので、夜間照明の設備はない。練習だから150ルクスもあればいいが、業者に見積もりを依頼すると750万円という返事がきた。サッカー部長だった島田秀夫に相談すると、言下に「無理」と言われた。

 だが森は簡単にはあきらめない。当時森の仕事は自家発電用のディーゼンルエンジンの販売だった。それを使い、野球のバックネットに電線を這わせて電球をつけるという強引な方法で、「手作り夜間照明」を165万円で作り上げたのだ。照明に照らされたのはグラウンドのほんの一部だったが、ともかく夜間練習の環境が整い、それから週4回、夜7時からの練習が行われるようになった。

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