■ついに果たしたJSL制覇

 練習環境を整える仕事に森を駆り立てたのは、1968(昭和43)年から監督になった二宮寛の生き様を目にしたからだ。二宮は火力発電所などの巨大プロジェクトを扱う部署の営業職で、社内では花形といっていい仕事をし、将来も嘱望されていた。しかし監督を引き受けることを決めると、職場も変えた。厚生・勤労部という地味な職場だった。「自分の仕事はサッカーの監督」と割り切ったのだ。森にとって大学の1年先輩でもある。なんとか練習環境を改善し、少年のように純粋で一途な二宮の仕事を支えたいという思いだった。

 1969(昭和44)年、監督2年目のシーズン前、二宮は2月に単独で渡独し、ボルシア・メンヘングラッドバッハで革命的なサッカーを見せていたヘネス・バイスバイラー監督と出会う。そして新しい時代のスピードを主体としたサッカーを吸収し、それを三菱のチームに落とし込む。さらにその年の夏には4人の若手選手を連れてボルシア・メンヘングラッドバッハの合宿に参加、彼らが急速に成長したこともあり、この年、ついにJSL初優勝を果たすのである。

 この1969年から森は「コーチ」という立場になり、二宮を支えた。1971年には天皇杯全日本選手権優勝、1973年にはJSLと天皇杯の2冠を達成する。国立競技場での決勝戦は、杉山隆一の「引退試合」でもあった。チームメートに肩車されて場内を一周する杉山に数万の観客が手を振り、叫ぶ姿を見て、森はようやく自分の仕事が終わったことを実感した。この年限りでサッカー部から離れ、社業に専念する決意を固めていたのだ。森は35歳になっていた。

(下に続く)

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