■広島にもたらされた最先端のサッカー

 当時の日本は国際社会で一等国として認められるために国際法を厳格に順守し、捕虜を非常に大事に扱った。ドイツ人捕虜を受け入れた収容所は福岡から千葉まで各地にあったが、最終的には徳島とこの似島に集約された。島内で自由を与えられた捕虜たちは、さまざまな活動をした。バウムクーヘンで有名な神戸の「ユーハイム」の創設者となるカール・ユーハイムは、解放後も日本に残った捕虜だった。

 そして捕虜たちが何より楽しんだのがサッカーだった。2チームが組織された。広島では、広島高等師範学校(現在の広島大学の前身のひとつ)を中心に、県立広島中学(後の広島一中、現在の国泰寺高校)などでサッカーが盛んになりつつあった。1919(大正8)年1月には、捕虜チームと広島学生チームの試合が行われ、捕虜チームが大勝した。

 「強烈な衝撃を受けた広島の学生たちは、毎週のように小船に乗って似島に渡り、ドイツ兵たちに指導を請い、最新のテクニック、戦術を習得。彼らの素直な姿勢と努力の結果、ただやみくもにラッシュを繰り返すだけの広島式サッカーは最新のドイツ式サッカーへと変貌を遂げたのである」と、サンフレッチェ広島のホームページには書かれている(https://www.sanfrecce.co.jp/club/hiroshima_soccer#early)。広島のサッカーは、実にこの似島から全国に飛躍したのだ。

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