日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。
■広島という「揺りかご」
ここで森の「生い立ち」を少し振り返ってみたい。彼の仕事の源泉が、その生い立ちに無関係ではないと思えてならないからだ。
森が生まれたのは広島県福山市。1937(昭和12)年8月、北京西郊の盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まった直後のことである。両親はともに教師だった。父・芳麿はスポーツ万能で、駅伝の指導など広く体育教育で活躍した人だった。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、父は広島県の体育主事となり、単身広島市に移った。そして3月には東京に転勤になった。「8月6日」を逃れることができたのは、まったくの偶然だった。
戦争が終わってようやく芳麿が広島に戻ると、そこは地獄のような有様だった。街には、原爆で家族も家も失った孤児や、家族と離れ離れになったままの少年少女がたむろしていた。自分を原爆に遭わせなかったのは、この子どもたちのめんどうを見るためだと芳麿は強く思い、奔走して1946(昭和21)年9月に広島湾の似島(にのしま)に保護施設「広島県戦歳児教育所似島学園」の設立にこぎつける。広島県と広島市にかけあい、島の北東部の旧陸軍施設を借り受け、職員と児童が自ら山林などを切り開いて施設をつくったのである。
似島は広島市のすぐ南、4キロほどのところに浮かぶ南北に長い島である。当時から広島市に属し、現在は「広島市南区似島町」となっている。島の北側には「安芸小富士」と呼ばれる標高278メートルの山があり、高くはないものの富士山に似た美しい姿を広島市内に見せている。
「似島」という名称は、「富士山に似た島」という意味でつけられたという話も流布しているが、「荷の島」からきたというのが本当らしい。一級河川の太田川が中国山地からたくさんの土砂を運んでくることで遠浅にならざるをえない広島湾には、大型の船をつけることができなかった。そこでいちど似島に荷を下ろし、そこから「はしけ」を使って広島城下へと運んでいたのである。
明治時代になると、陸軍の「検疫所」が設置される。日清戦争、日露戦争などの戦地で伝染病が流行、日本国内にもちこませないために、この似島を「水際対策」の検疫所としたのである。さらに日露戦争や第一次世界大戦の後には、「捕虜収容所」も併設された。なかでも第一次世界大戦時にドイツが支配していた中国の青島(チンタオ)から連れてこられたドイツ人捕虜は、その後の日本の社会に少なからぬ影響を与えることになる。