■叩き込んだ「プロ」の心構え
JSLでは、重要な事項は10人程度の「常任運営委員」が決め、その決定に従い、各チームから出ている「運営委員」が実務部隊となってリーグ全体の運営をしていた。自分のチームの仕事をするのではなく、リーグ本体の仕事を分担して行っていたのである。運営委員たちにはサッカー選手ではなかった者もいて、たいていは若手の社員だった。会社で普通に仕事をこなしながら終業後にリーグ運営の実務に当たっていた。
森は、そうした若手に、社業が忙しいと甘えてはならないと話した。「プロ」としての心構えを説き、厳しく指導した。そうしたなかに、1974年に関西学院大学を卒業し、日産自動車に就職してサッカー部のマネジャーとなった佐々木一樹もいた。佐々木は後にJSLの事務局長となり、Jリーグの事務局長も務めた。
「未来のプロ化のための運営のプロづくり」。それが森の忘れてはならない業績だった。「選手や監督の置かれた環境だけを見れば、1970年代後半にもプロ化は可能だった」と後になって森は語ったが、1970年代には試合や大会を運営するプロはまだまだ育っていなかった。彼らが人生をかけてその仕事に取り組む環境ができていなかったからだ。
川淵のような派手な立ち回りはなかったが、森は常に未来を考え、次代を担う若者に目を向けてきた。ときには「うるさい」と嫌われたこともあったという。しかし嫌われていることを承知で、大きな声で意見を言うのをやめなかった。