後藤健生の「蹴球放浪記」第126回「ドサ回りで訪れたザプロージェとは、あの街!」の巻(2)ソ連遠征の「ドサ回り」の先にあった「彼の地」の画像
白ロシア代表との試合を伝える現地の新聞 提供/後藤健生

 蹴球放浪家・後藤健生が旅に出始める前から、サッカーは世界をつないでいた。日本代表も海を渡っていたが、現在では想像できないほどの扱いを受けていた。まさに「隔世の感」を禁じ得ない時代を振り返る。

■ソ連に助けられた1960年代

 1960年代の日本代表の遠征などは、まさに「ドサ回り」の連続。地方の下部リーグのクラブや地域選抜チームなどとの対戦がほとんどで、試合会場も聞いたことのないような地方の小都市が多く、新聞に結果が載っていてもいったいどの辺の街なのか見当もつきませんでした。

 1960年代には、日本代表は当時のソ連に毎年のように遠征しています。

 1961年に日本体育協会とソ連の体育組織共同評議会との間で「日ソ・スポーツ交流協定」が締結されたので、各競技で交流が盛んになったのです。

 日本チームは横浜から船に乗ってソ連極東のナホトカ港までたどり着けば、この協定によってソ連国内での移動滞在費はすべてソ連側が負担してくれるのです。そうやって移動して、ソ連から西ヨーロッパに出れば安い費用でヨーロッパ遠征ができたのです。財政状態が苦しかった当時の日本蹴球協会にとっては大変にありがたいことでした。

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