サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回はひとりの「小太りのおじさん」の話。
■絶対の「背番号9」
「ハンブルガーSVの練習場のグラウンドでは、ウーベ・ゼーラーがヘディングシュートの練習のために走るコースだけ、芝生がはげているんですよ」(岡野俊一郎、『三菱ダイヤモンドサッカー』でのコメント)
ウーベ・ゼーラーが亡くなった。ドイツ代表72試合(1954~1970年)で43得点。いずれも当時の最多記録だったが、その後の時代に代表の試合数が増えたこともあり、いずれも何人もの選手に抜かれた。しかしそうした記録を超えた「記憶」を、彼はドイツの人びと、そして世界中の人びとの心に残した。1936年11月5日生まれ、2022年7月21日没。享年は85歳だった。
『ダイヤモンドサッカー』を通じて日本のサッカーファンが欧州のリーグやワールドカップを知り始めた1960年代の終わりから1970年代はじめにかけて、ゼーラーは「西ドイツ」代表のキャプテンだった。ワールドカップは1958年から4大会連続で計21試合に出場、その4つの大会すべてで複数得点を記録して通算得点は9点。優勝こそできなかったが、準優勝(1966年)、3位(1970年)、4位(1958年)、ベスト8(1962年)と、常に大会の中心にいた。
ポジションはセンターフォワードである。所属のハンブルガーSVでも西ドイツ代表チームでも、常に背番号9をつけてプレーした。バイエルン・ミュンヘンで不動の9番だったゲルト・ミュラーが西ドイツ代表では13番という奇妙な番号をつけたのは、彼がデビューした時代にゼーラーがキャプテンとして君臨していたためだった。G・ミュラーはゼーラーが引退した後の1974年ワールドカップにも13番をつけて出場し、西ドイツに20年ぶり2回目の優勝をもたらす立役者となった。