■ユナイテッドを襲った悲劇
1958年ワールドカップ予選の大陸間プレーオフは、思いがけない運命のいたずらももたらした。ウェールズ代表のジミー・マーフィー監督は、イングランドの強豪、マンチェスター・ユナイテッドの助監督でもあった。ユナイテッドは、このシーズンの欧州チャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)で準々決勝に進み、2月5日にレッドスター・ベオグラードとの第2戦を戦うことになっていた。
ウェールズ代表にとっては急きょ決まった大陸間プレーオフ。マーフィーはマンチェスター・ユナイテッドのマット・バスビー監督と相談し、ウェールズ代表にとって史上初のワールドカップ出場を確実なものとすべく、クラブを離れた。そしてベオグラードで3-3の引き分けにもち込み、準決勝進出を決めたユナイテッドは、翌2月6日、給油のために立ち寄ったミュンヘン空港で離陸に失敗し、チームの大半を失い、バスビー監督も瀕死の重傷を負う。
カーディフからマンチェスターに戻ったマーフィーはユースの選手を中心にチームを立て直し、バスビー監督が復帰するまで5か月間にわたって指揮をとった。そして助監督に戻った後、1970年代以降はクラブのスカウト部門を率い、1989年に79歳で亡くなるまで、ユナイテッドの未来をつくるため、若い才能の発掘に力を注いだ。
史上初めて行われたワールドカップ予選の大陸間プレーオフは、48歳で終わるかもしれなかったマーフィーの人生にさらに30年間以上の時間を与え、その間の仕事を通じて、マンチェスター・ユナイテッドというクラブにとどまらず、英国のサッカー全体により深いスポーツの文化をもたらすという意味もあったのかもしれない。