■ロマンティック街道に面した街で

 僕が生まれて初めてワールドカップを現地まで観戦に行ったのは1974年の西ドイツ大会だった。そして、7月7日にミュンヘンでの決勝戦が終わってから、僕は約1か月にわたってドイツ、オーストリア、スイスなど西ヨーロッパ各地を観光してから帰国した。当時の感覚では、ヨーロッパ観光などそう簡単にできることではなかった。だから、せっかくの貴重なこの機会に各国を見て回りたかったのだ。

 そして、決勝戦の翌日、観光旅行の手始めに「ロマンティック街道」を巡る観光バスに乗車したのだった。参加した観光客のほとんどがヨーロッパ人で、ドイツ人が半分くらいだったように記憶している。

 そして、バスがネルトリンゲンの街に入った時、現地のガイドが「この街が、あのゲルト・ミュラーの生まれた街です」と誇らしげに語ったのである。

 ゲルト・ミュラーこそ、前日に行われたワールドカップの決勝戦で決勝ゴールを決めた選手、つまり西ドイツの英雄だった。

 1974年ワールドカップの決勝戦は、1次リーグから圧倒的な攻撃力で勝ち進んできたヨハン・クライフ率いるオランダと開催国優勝を目指すフランツ・ベッケンバウアーの西ドイツの対戦となった。1972年の欧州選手権では圧倒的な優勝を遂げた西ドイツだったが、ゲームメーカーとしてヴォルフガング・オフェラートを起用するのか、ギュンター・ネッツァーを起用するのかという問題を抱え、1次リーグでは東ドイツに敗れて2位通過となるなど苦戦の連続で勝ち進んできた。

 それだけに、決勝戦でも「オランダ有利」との下馬評が高かったし、実際、オランダのキックオフで試合が始まると、西ドイツの選手が一度もボールに触る前にドリブルで仕掛けたクライフが倒されてオランダにPKが与えられ、ヨハン・ニースケンスが決めて、いきなりオランダがリードする展開となった。

 しかし、その後は次第に西ドイツが反撃に移り、クライフがベルティ・フォクツに徹底的なマークを受けてオランダの攻撃力が消されてしまう。25分にはパウル・ブライトナーがPKを決めて1対1の同点とし、そして迎えた43分、右サイドからドリブルで持ち込んだライナー・ボンホフのクロスをミュラーが決めて、西ドイツが逆転。この大会から新調されたFIFAワールドカップを掲げることになった。

 主将のベッケンバウアーやブライトナー、そしてミュラー、DFのハンス=ゲオルク・シュヴァルツェンベック、さらにはGKのゼップ・マイヤーなど西ドイツ代表選手の多くがバイエルン・ミュンヘンに所属しており、まさにホーム・スタジアムでの優勝だった。

 そして、あの決勝点のシーンが僕たちの瞼に深く刻み込まれた。

 

次の記事に続く
  1. 1
  2. 2
  3. 3