カズといえば「11」番が代名詞。ところが1990年、ブラジルに渡ってサントスFCでプレーしていた三浦知良は、読売クラブ(現在の東京ヴェルディ)に移籍して、背番号「24」をつけて1年間、日本サッカーリーグでプレーすることになった。そして、これにがまんできない男がいた。1982年ワールドカップ・スペイン大会で、アルゼンチンのテクニシャンにして頭脳派としても知られるMFオズバルド・アルディレスは、フィールドプレーヤーながら背番号「1」をつけてプレーした——。サッカージャーナリスト・大住良之の「知れば知るほど奥深い」背番号の物語の完結編。
■幻となったガンバ大阪の背番号「8」
ところが欧州のトップリーグでは、このころ、固定番号制が始まるのである。理由は「ファンに覚えてもらいたい」というような穏やかな話ではない。「マーチャンダイジング(商品化)」である。当時、欧州のプロサッカーは、1980年代に吹き荒れた「フーリガン」の影響で深刻な経営危機の状況にあった。多くのクラブが巨大な負債をかかえ、経営の立て直しを迫られていた。その一環として考案されたのが「固定番号制」だった。イングランドのプレミアリーグが全面的にこれを採用したのは、皮肉なことにJリーグがスタートした1993年のことだった。
背番号とともに選手名も入れたレプリカのユニホームは、当然個人差はあるが、爆発的に売れ、クラブに大きな収入をもたらした。サッカーのプレーだけでなく、選手が背中につける番号が、クラブにとって重要な「商品」となったのである。プレミアリーグの成功を見て2年後の1995年にイタリアのセリエAが追随、1996年には西ヨーロッパの主要リーグの多くが「固定番号制」を採用した。そしてJリーグも、1997年に方針を変更するのである。
このとき話題になったのが、ガンバ大阪の今藤幸治さんだった。細身ながらフィジカルが強く、スピードがあった今藤さんは、右サイドバックを中心に活躍、1994年には日本代表にも選ばれた選手だった。しかし攻撃力も高かったため、試合によっては前線での起用もあった。その結果、今藤さんは、1993年から1996年までの4シーズンで、規約でGK以外につけることを許されなかった「1番」を除いて、2番から11番まですべての番号をつけて先発した唯一の選手となった。その今藤さんが固定制になった1997年に選んだのは、8番だった。
だがファンは「背番号8今藤幸治」を見ることはなかった。今藤さんは1996年の年末に行われた天皇杯の準決勝で相手選手と激突、頭を強打して担架で運び出された。そしてその検査のなかで脳腫瘍に冒されていることがわかり、その後はいちどもピッチに立つことなく1998年に引退、2003年に30歳の若さで亡くなった。