大住良之の「この世界のコーナーエリアから」連載第71回「背番号の物語」(2)東京オリンピック代表・久保建英「7」の本来のポジションの画像
久保建英 撮影・中地拓也

ストイコビッチが来日し、名古屋グランパスでプレーをはじめてまだ日がたっていない頃、テレビ番組の取材でプレースタイルを聞かれて、「ジューバン、ジューバン」とたどたどしく答えていたのを覚えている。「10番」と言えばすべてが通じる。背番号にも、自分のプレーにも絶対的な誇りを抱いていることがストレートに伝わって来た。このように、サッカーというスポーツにおいて、背番号は観戦者に多くのことを物語っているのである。どうですか? いろいろと詳しく知りたいと思いませんか?

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 よく知られているのが、1920年代から1930年代にかけてアーセナルを無敵のチームに仕立て上げた名将ハーバート・チャップマンのアイデアである。1928年8月25日、彼はロンドンのスタンフォード・ブリッジ(チェルシーのホームスタジアム)で行われたアーセナル対シェフィールド・ウェンズデー、チェルシー対スウォンジーの「ダブルヘッダー」で、背番号をつけてプレーすることを提案した。ポジションごとに番号をつければ、ファンにわかりやすいというのである。

 当時は、1925年のオフサイドルールの変更(3人制から2人制)による守備の混乱期だったが、アーセナルはいち早く対応したチームだった。中盤で自由に動き回っていた「センターハーフ」を2人の「フルバック」の間に配置して守備の選手にしたのだ。「WMシステム」である。ただし、この下げられた選手は、役割としては「センターバック」ながら、WMでのポジションの呼び名は旧来の「ピラミッド・フォーメーション(2−3−5システム)」のまま、「センターハーフ」だった。

 チャップマンの提案は、GKに1を与え、「フルバック」は2と3、「センターハーフ」を含むハーフバックは4から6、そして5人のフォワードは7から11というものだった。このアイデアは大好評だった。翌年、チェルシーは背番号付きのユニホームで南米ツアーを行ったが、「ロスヌメラードス(番号付き)」というニックネームで南米のファンを楽しませたという。

 だが南米で「番号付き」の試合が行われたのはイングランドよりも早かった。1923年に当時有名だったスコットランドのプロクラブ「サード・ラナーク」が南米遠征を行ってブエノスアイレスで地元選抜チームと対戦したときには、両チームとも背と胸に大きく番号を貼りつけて試合をしたという。

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