■2つのオリンピックが日本サッカーを底上げした
こうして、1932年のロサンゼルス大会には参加できなかった日本のサッカーにとって、初めてのオリンピックは1936年のベルリン大会だった。日本は1回戦でスウェーデンと対戦し、前半は0対2とリードを許したものの、後半、走るサッカーで3対2と逆転勝ちした。スウェーデンはまだプロ化されていなかったので、若手主体とはいえフル代表が参加していたし、2年後の1938年ワールドカップでは4位、戦後の1950年ワールドカップでは3位に入る強豪だった。
2回戦では、1934年と38年のワールドカップ・チャンピオンであるイタリア(これも若手主体のフル代表)の前に0対8と大敗を喫したものの、ベルリン大会でのスウェーデン戦の勝利は日本のサッカー界にとっては大きな自信となったのだ。
ベルリン大会に出場したチームは早稲田大学主体で23歳以下が多い若いチームだった。もし、4年後の東京大会が予定通りに開催されていれば、地元開催の大会のために集中強化ができたはずで(たとえばイタリア代表の招待計画もあった)、その後の日本のサッカーの歴史は大きく変わっていただろう。
しかし、戦争の影響で戦後になると日本のサッカーは低迷してしまう。1956年のメルボルン・オリンピックには出場したものの、1回戦でオーストラリアに完敗してしまい、1960年のローマ大会はアジア予選で韓国に敗れて敗退。そこで、日本蹴球協会は4年後の東京大会での強化のために西ドイツ協会に対してコーチの派遣を要請し、やって来たのが「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマー・コーチだった。
クラマー・コーチの下、長沼健監督が就任して集中強化した日本代表は1964年の東京オリンピックでアルゼンチンを破ってベスト8に進出。ほぼ同じメンバーのまま強化した1968年のメキシコ・オリンピックでは銅メダルを獲得したのだ。
東京、メキシコで活躍した選手たちが引退するとともに日本のサッカーは再び低迷してしまう。しかし、両大会で日本代表が活躍したことによって少年層でのサッカー人口が急拡大。そうした選手たちが成長していたからこそ、1990年代に入る頃にはテクニックのある選手が育ってきており、1993年に始まったプロ・リーグ(Jリーグ)の成功につながったのだ。
今では、日本代表はワールドカップもオリンピックもアジア予選突破は当たり前のようになっているが、そのきっかけが1960年代の2度のオリンピックにあることは間違いない。地元開催となる今年のオリンピックでも、男女の代表チームが活躍してメダル獲得に成功すれば、将来の強化につながることは間違いないだろう。