■みんなが同じノート型マシンを使っていた
日本語ワープロ機が普及し始めたのが1980年代の後半のことである。1988年、フリーランスになった私は、さっそくNECの「文豪」の個人向けデスクトップ版と、小さなワイヤドットプリンターを購入し、それで仕事を始めた。
比較的スムーズにワープロに移行できたのは、それ以前に英文のタイプライターを使う機会が少なくなかったためかもしれない。雑誌の仕事でも海外に手紙や申請書を書く必要があり、編集部には1台のタイプライターがあった。タイピングを習ったわけではなく、まったくの我流だったが、ともかくキーボードに恐怖感がなかったのが幸いした。その年はあるガイドブックを1冊丸ごとまとめる仕事が中心だったのだが、1冊分の原稿を打ち終わるころにはタイプのスピードも格段に速くなっていた。
やがて富士通のOASYSを使い始めた。日本サッカー協会の事務局に行くと、全員の机の上にミシンのような縦長の箱が置かれていた。それが当時大ヒットしていたOASYSのワープロだった。「文豪」のワイヤドットプリンターと比較すると、印字が格段にきれいだった。「文豪」はまだまだ使えたが、印字の魅力に負けた。
そしてJリーグが始まるころには、モデムを内蔵したノート型のOASYSを買い、それをバッグに入れてあちこちに出かけるようになっていた。やがて事務所で仕事をするときにも、使うのはこれ1台だけになった。このOASYSは取材現場から記事を送らなければならない新聞記者たちの必需品で、1990年代の半ばには10人中8人が使用していた。