ミラノ・ダービーが帰ってきた。ACミランとインテル、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァを本拠地とする両クラブが、スクデットを懸けて相対したのは10年ぶりのこととなる。かつてセリエAは世界最強リーグと謳われて、日本でも絶大な人気を誇っていた。変わらない「サンシーロ」の壮麗な姿は、あの時代の復活を予言しているのだろうか。
■郷愁のACミラン黄金時代
日本人ファンにとっても、ある程度の年齢以上の方にとっては「ミラノ・ダービー」は郷愁をそそるものだろう。
日本でヨーロッパ・サッカーの映像が簡単に見られるようになったのは、1980年代の末から1990年代の初めころの話だ。WOWOWが放送を開始したのが1990年。日本でも有料放送の時代が始まったのだが、そのWOWOWが1991年からセリエAの放映を始めた。
セリエAが選ばれたのは、当時、セリエAが世界最高峰のリーグだったからだろう。
オランダのルート・グーリットやマルコ・ファンバステン、西ドイツのローター・マテウスやユルゲン・クリンスマンなど、世界的なスーパースターたちはこぞってイタリアでプレーしていた。南米大陸からもブラジルのジーコやパウロ・ロベルト・ファルカン、そしてアルゼンチンのガブリエル・バティストゥータやディエゴ・シメオネなどが参戦しており、そして、あのディエゴ・アルマンド・マラドーナが“神”としてナポリに降臨した。
それは、まだようやくサッカーのプロリーグ化が話題となり始めたばかりの極東の島国のサッカー・ファンにとっては夢のような存在だった。
しかも、1990年のワールドカップがイタリアで開催されたため、スタジアムも新築、改築されて舞台も非常に華やかだった(実際は、イタリアのスタジアムの多くは老朽化したものも多かったのだが)。
こうして、日本人の多くはセリエAを通じてヨーロッパ・サッカーに親しむようになったのだ。
そして、さらにアリゴ・サッキ監督のプレッシング・サッカーで世界に君臨したACミランは、ヨーロッパ・チャンピオンズカップで優勝して、12月に東京の旧国立競技場で開催されていたトヨタカップに何度も参戦。日本人はフランコ・バレージが統率するディフェンスラインの一糸乱れぬ上下動やグーリットやファンバステンのダイナミックなプレーに生で接する機会を何度も得ていたのだ。
■小さな活版写真で「サンシーロ」と出会った
そんな時代、ミランとインテルの本拠地であるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァは日本人にとっては憧れの的だった。
僕にとっても、ジュゼッペ・メアッツァ、いや「サンシーロ」は特別のスタジアムの一つである。
スタジアムが、ミラノの両クラブで活躍したFWジュゼッペ・メアッツァの名で呼ばれるようになったのは1980年代のことだから、僕にとってこのスタジアムはやはり「サンシーロ」である。「サンシーロ」は地名である。1925年にミランの会長だったピエロ・ピレリが出資して、サンシーロ競馬場の隣に長方形のスタジアムを建設したのだ。陸上競技兼用の楕円形のスタジアムがほとんどだったイタリアでは珍しいサッカー専用のイングランド・スタイルのスタジアムだった。
その後、1934年の第2回ワールドカップの開催、第2次世界大戦後の観客数の増加、そして1990年のワールドカップを機にスタジアムは改装と拡張を重ねて、現在のような巨大な建造物となっていった。
僕が、最初に「サンシーロ」のことを意識したのは『サッカーマガジン』に載っていた小さな活版写真だった。
グラビアでもない、目の粗い小さな活版写真だったが、2階席までびっしりと埋まったスタンド風景になぜかとても引き付けられたのだった。
当時、海外のサッカー風景といえば、東京12チャンネルで放映されていた「三菱ダイヤモンドサッカー」で見るイングランドのスタジアムだった。立見席にびっしりと入ったイングランドのサッカーシーンにはとても興奮を覚えたものだが、「サンシーロ」の風景はイングランドのフットボール・グラウンドのそれともまたまったく異質のもののように感じたのだ。
ただし、「いつか行ってみたい」と思ったような記憶はあまりない。サッカーを見るためにイタリアまで行くなどということは、1960年代の中学生にとってはまったく想像もできない途方もないことであり、“夢”に見ることすらできなかった。