代表コーチの細やかな気遣い

 アマチュアだったからおおらかだったわけではない。取材者の人数が極端に少なく、しかもサッカーの専門誌の記者だから、監督も選手たちも気にもかけなかったのだろう。練習から戻ると、選手たちは散歩や買い物に出かけていく。今井カメラマンが同行する。そして私は、ホテルのラウンジでベテラン選手たちからコーヒーをごちそうになった。選手たちからことあるごとに記念撮影を頼まれ、帰国してからもそれをプリントして配らなければならないという重荷を背負った今井カメラマンはともかく、あこがれの選手たちと毎日グラウンド外でゆっくり話すことができ、私はとても幸福だった。

 もちろん、長沼監督は「駆け出し記者」にもていねいに対応してくれた。平木コーチはサッカーのいろいろなことを、まるで選手に対するように教えてくれた。チームには監督とコーチのほかは、団長の藤田静夫副会長(後に会長)とマッサーの安斎勝昭トレーナーがいるだけ。平木コーチはマネジャーや雑用係を兼務し、非常に忙しい身だったが、私たちにまで気を使ってくれるのをとてもありがたく思った。

 肝心の試合はどうだったのか? 日本は北朝鮮には0−1で敗れたものの、永井の決勝点でシンガポールに2−1と競り勝ち、準決勝に進んだ。相手は中国。「文化大革命」によって国際舞台から遠ざかっていたチームがおよそ10年ぶりに姿を見せた大会だった。文革前からのベテランが中心だったが、屈強なDF、スピードのあるウイング、テクニックをもったFWなどがうまくミックスされ、非常に成熟したチームのように感じられた。日本は奮闘したものの1−2で敗れ、アジアカップ出場権獲得はならなかった。

 ちなみに、日本がアジアカップの予選に出場したのはこれが2回目。最初は1967年に行われた68年大会の予選で、日本代表の南米遠征と重なったため、「B代表」を送り、出場権を逃した。いわば「A代表」として初めてのアジアカップ・エントリーだったのだが、メキシコ五輪からの切り替えが遅れ、高田、渡辺、永井、藤口といった私と同年代の「若手」攻撃陣がスピードあふれる攻撃を見せて将来への可能性は感じさせたものの、老巧な中国には歯が立たなかった。

 サッカーの人気がまだ低く、一般のメディアからの関心が低かった時代。取材記者もチームの一員のように扱われていた。当然のことながら、「放浪」などしている場合ではなかったのである。

 

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