■代表遠征に取材陣は2人だけ
初めて日本代表の海外遠征についていったのは、1975年の6月、香港で行われたアジアカップ予選だった。『サッカー・マガジン』のスタッフになって3年目。24歳にもなっていない若造だったが、わずか5人の編集部だったので、出番が回ってきたのである。
このときの日本代表は、釜本邦茂は欠いていたものの、当時の「最強」と言っていいメンバーだった。長沼健監督、平木隆三コーチ以下、選手は18人。「メキシコ五輪組」の大半はすでに引退していたが、中盤には東京五輪以来の大ベテランである森孝慈がいた。グループ分けのために行われた香港戦に続くグループ初戦、大会最強と見られた北朝鮮戦のメンバーは、GK瀬田龍彦、DF古田篤良、川上信夫、清雲栄純、大仁邦彌、MF藤島信夫、森孝慈、落合弘、FW高田一美(奥寺康彦)、渡辺三男、そして藤口光紀(永井良和)だった。
日本からの取材は、私と今井恭司カメラマン、『サッカー・マガジン』から派遣された2人だけだった。試合には共同通信と読売新聞の香港駐在員が取材にきたが、練習の取材はいつも私たち2人きりだった。
私たちは当然のように日本代表と同じホテルに宿泊した。ビクトリアハーバーに面して数年前に開業したばかりの「ザ・エクセルシオール香港」(昨年閉鎖されて取り壊され、いまはオフィスビルにするために建築中だという)。生まれて初めて泊まった高層の豪華ホテルだった。試合会場の香港スタジアムは歩いて10分ほどのところだったが、練習場は香港島の反対側だったので、私と今井カメラマンは当然のようにチームバスに乗り込み、練習場に行き、そして戻った。
チームの「ボス」的存在は、当時30歳の大仁選手だった。バスでは最後尾の左窓側、後に「カズ席」あるいは「キングシート」と呼ばれるようになるところにいつも陣取り、バスが動き出すと後ろから大声を挙げて若手をからかっていた。現代のファンは、日本サッカー協会会長(2012〜2016年)として謹厳な顔をしてアギーレ日本代表監督の契約解除会見などで話す彼の姿しか知らないだろうが、この当時はチームのムードメーカーだったのだ。