■「いちばん下」からのスタート
小学校時代には熱心さとドリブルのテクニックで注目される存在だった憲剛だが、中学入学時に136センチ、高校入学時にも154センチと体格に恵まれず、サッカー界の「エリート」たちとはほど遠い道を歩むことになる。都立久留米高校(現在の都立東久留米総合高校)から中央大学に進み、憲剛はいつも「いちばん下」からのスタートだった。しかしどこでも、時間をおかずにトップチームに引き上げられている。
どんなコーチも、まずは憲剛の小ささ、非力さに首をひねる。だが実際にプレーさせてみると、意外にがんばること、そして何よりも技術が高く、非常に良いビジョンをもっていることに驚嘆することになる。しかし中央大学は憲剛が3年生のときに関東大学リーグの2部に降格、4年生になってキャプテンとなった憲剛は2部優勝、1部復帰に貢献するが、当然、Jリーグクラブからの注目を受ける存在ではなかった。
1980年生まれの日本のサッカー選手には、学年は1つ上だが、J1最多出場記録の保持者でもある遠藤保仁(現在はジュビロ磐田)がいる。彼は、小野伸二、稲本潤一、高原直泰、小笠原満男、本山雅志、中田浩二ら「黄金世代」と言われた1979年生まれの才能きらめく選手たちとともに1999年のワールドユース選手権(現在のFIFA U-20ワールドカップ)で準優勝という、日本のサッカーがいまだ体験したことのなかった高みに昇る。そして21世紀初頭、日本代表と日本のサッカーを世界に向けて牽引していく。だが憲剛は、同じころ、関東大学リーグ2部で奮闘していたのだ。
しかし大学4年の6月に当時Jリーグ2部だった川崎フロンターレの練習に参加するという大きなチャンスが訪れる。そしてわずか2日間で「可能性」を見いだされて「内定」を勝ち取る。もちろん川崎でも「いちばん下」からのスタート。しかしここでも、プロの激しさに慣れ始めると、開幕までにベンチ入りメンバーとなり、J2リーグ開幕戦の試合終盤でデビューを果たす。