「中村憲剛 神が宿る右足」(2) “芸術以上”を生む職人の「決して過たないタイミング」の画像
中村憲剛 撮影/原悦生

※第1回はこちらから

小学生のころの写真を雑誌で見たが、これがサッカー小僧だという顔で笑い、サッカーが好きで好きでたまらないと全身が物語っていた。40歳になった中村憲剛は、そのプレーでサッカーは最高だと観客に訴えかけてくる。それが今シーズンで引退だなんて、寂しくてたまらないじゃないか。あの右足がもっと見たい。

■ベースとなるのは職人としての側面

 憲剛は1980年10月31日、東京・小平市生まれ。姉が2人いて、いつも笑顔を絶やさない憲剛は家族中からかわいがられた。サッカーを始めたのは小学校1年生のとき。「府ロクサッカークラブ」という東京の少年サッカーでは有名なチームで、2学年上には女子サッカーの「レジェンド」澤穂希がいた。

 憲剛はたちまちサッカーのとりこになった。彼はチームでの練習に満足せず、自宅近くの道路で隣家の塀を相手に毎日毎日暗くなるまでボールをけった。憲剛の技術の高さは「止める、ける」の正確さ、そして素早さに根源があるのだが、それは中学卒業まで飽くことなく続けられた「壁当て」のたまものと言える。憲剛の右足にはくるぶしの下にインサイドキックをけることでできた大きな「タコ」があるという。

「ボールをける」ということについても、ある程度の「才能」は必要だ。その要素のひとつに「目」の良さがある。動いているボールの中心を的確にとらえ、ヒットすることで、正確で強いキックが可能となるからだ。しかしその才能だけで「止める」「ける」の技術が憲剛のようなレベルになれるわけではない。釜本邦茂が「右45度」からのシュートを確実に左隅に入れるため、毎日毎日、チーム練習の後に飽くことなく練習したように、1本1本集中し、工夫しながら、しかも無限といっていいほどの数多いキックをすることによってのみ、その才能が「職人」のように身についていくものなのだ。

 そう、Jリーグのなかでも抜きんでた「職人」であるという、憲剛の重要な側面を見のがしてはならない。ある程度の資質の上に長年の鍛錬とその仕事にかかわり続けることで生まれる「職人芸」。実用本位のその能力が研ぎ澄まされていけば、「芸術」以上のものが生み出される。「ボールを止め、ける職人」としての憲剛というベースがなければ、そこに「神」が舞い降りることなどない。

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