有名な「馬賊の歌」の歌詞を思い出した。「赤い夕陽を身に浴びて、夢は歴史を駆け巡る」(作曲は、話題の古関裕而)。二十代だった後藤さんは、1974年ワールドカップ観戦のために、ソ連のナホトカ経由でヨーロッパへ向かった。同名異曲はこう歌う。「僕も行くから君も行こう。狭い日本にゃ住み飽いた」――。
■夜が明けたら国境の駅
国境には機関銃を持った兵隊たちがびっしりと並んで、こちらを向いて立っていました。まるで、戦争映画の1シーンのようです。
列車が国境の駅に到着したのは午前9時55分のことでした。コンパートメントに車掌と国境管理官がやって来て、乗車券をチェックしてからパスポートを持って行ってしまいました。列車で国境を越える時はパスポートを持って行かれてしまうことが多いので、いつも不安に襲われます。
しかし、本当のショータイムはこれからでした。列車はゆっくりと動き出すと、巨大な工場のような建物の中に入って行きました。すると、列車は巨大なジャッキでゆっくりと持ち上げられていったのです。もちろん、乗客は乗せたままです。
台車を交換するためです。ソビエト連邦とポーランドの国境にあるブレストの駅でした。
列車がモスクワを出発したのは前日の夕刻でした。深夜に停車した時に外を見たら、駅名表示板には「ミンスク」と書いてありました。当時の白ロシア共和国、現在のベラルーシの首都です。そして、翌朝に列車はいよいよ国境までやって来たのです。
ヨーロッパのほとんどの国では鉄道の軌道幅は1435ミリです。日本の新幹線と同じで、これを「標準軌」と呼んでいます(JR在来線は1067ミリの「狭軌」)。ところが、ロシアの鉄道の軌道幅は1520ミリもあるので、列車はそのままではポーランドの線路を走れないのです。そこで、列車は工場の中に入って台車を交換するというわけです。
作業には2時間くらいかかりましたが、その間、乗客は車内に閉じ込められたままです。
1974年の6月7日のことでした。
前回は「錆びた鉄のカーテン」を通り抜ける話でしたが、1974年といえばまだ冷戦の真っ盛り。分厚く強固な「鉄のカーテン」がヨーロッパを真っ二つに分断している時代でした。2つの超大国は互いに数千発の戦略核ミサイルを保有し、相手の主要都市に照準を合わせたまま睨み合っていました。