■キッシンジャーとワールドカップ観戦
しかし、ベトナム戦争で疲弊したアメリカのニクソン大統領と中国との対立を深めたソ連のブレジネフ書記長は「デタント(緊張緩和)」の交渉を開始。7月にはアメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官がモスクワを訪れることになっていました(ドイツ生まれでサッカー好きなキッシンジャーは、モスクワの帰りにミュンヘンに立ち寄って西ドイツ対オランダの決勝戦を観戦していきました)。
僕も1974年のワールドカップを見るために西ドイツに向かっていたところでした。
当時、ヨーロッパまで最も安上がりに行けるルートとして、モスクワ経由のパッケージ・ツアーというのがあったのです。横浜から船に乗ってソ連・沿海州のナホトカ港に着きます。最大の港ウラジオストクは軍港だったので外国人は近づくこともできませんでした(今は開放されて観光地になっていますが)。ナホトカからは鉄道でハバロフスクまで行って、飛行機でモスクワに向かいます。
そして、モスクワで3泊の観光の後、列車でそれぞれ希望の都市まで行くことができます。僕は、モスクワからポーランドの首都ワルシャワに出て観光。その後、さらに列車で東ドイツの首都、東ベルリンに出て、そこから西ドイツに入るというコースを選択しました。
冷戦下でドイツは「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)と「ドイツ民主共和国(DDR)」(東ドイツ)に分かれていました。DDRはドイツ社会主義統一党(共産党)の一党独裁国家でした。
東西両ドイツ間の国境はとくに問題なく通過しました。最初は東ベルリンから西ベルリンまで歩いて渡ろうと思ったのですが、検問所「チェックポイント・チャーリー」のアメリカ兵に「徒歩ではあかんよ」と言われたので地下鉄(Uバーン)に乗って西ベルリンに入りました。東西を結ぶ路線があって、それに乗れば知らないうちに西ベルリンに入ってしまうというわけです(もちろん、誰でも乗れるわけではありません)。
そして、西ベルリンからは西ドイツの列車に乗って開幕戦が行われるフランクフルトまで行きました。東ドイツ領内は通過するだけで一切停車しません。いずれにしても「鉄のカーテン」を越えたという実感はほとんどありませんでした。
本当にすごかったのは「鉄のカーテン」ではなく、ソ連とポーランドの国境だったのです。
台車を交換した列車は再びブレスト駅に停車して、そこでパスポートを返してもらってからポーランド側のテレスポルという駅に到着。今度はそこでポーランド側の入国審査が行われました。