■ドイツ、チェコから日本へのパス・サッカーの道
その日本人が初めてパス・サッカーを体験したのは第1次世界大戦の時だった。日本は日英同盟を結んでいたため、中国にあるドイツの租借地である青島(チンタオ)を攻略し、数千人のドイツ兵を捕虜として日本国内の収容所に収容した。当時の日本政府は国際法に基づいてドイツ捕虜を丁重に扱い、ドイツ捕虜は収容所近辺の日本人と交流し、音楽から料理までさまざまなドイツ文化を伝えた。そして、収容所内にはグラウンドが作られ、捕虜たちはフットボール・チームを結成。日本人学生と試合を行った。
また、チェコの軍人が神戸で強豪、神戸一中と試合をしたこともあった。
チェコ・スロバキアはオーストリア・ハンガリー帝国の一部となっていたが、ロシアの捕虜となったチェコやスロバキアの軍人たちは、祖国独立のためにロシア側に立ってオーストリア軍と戦っていた。だが、ロシアがドイツ、オーストリアと講和してしまったため彼らはシベリア、北米経由でヨーロッパに渡ることとなった。しかし、ウラジオストックから北米に向かった船のうち1隻が台風で遭難し、船を修理するために神戸に回航され、彼らは数か月間、神戸に滞在していたのだ。
こうして、黎明期の日本のサッカーは世界でも先端的な中部ヨーロッパ諸国のパス・サッカーと接触して、大きな印象を受けたのだった。
そして、その直後、1920年代の初頭にはビルマ人留学生のチョウディンから理論的にパス・サッカーのコーチを受けたのだ。チョウディンは、当時ビルマを支配していた英国政庁や軍のスコットランド人からサッカーを習ったのだ。そして、ビルマにはパス・サッカーの元祖であるスコットランド人が多く赴任していたのだ。おそらくドイツ兵やチェコ兵のプレーの印象がまだ強く残っていたことだろう。だからこそ、当時の日本のサッカー人はチョウディンの教えをすぐに受け入れられたのではないだろうか。
日本のパス・サッカーの歴史も、すでに100年に達しているのである。