逃した魚は大きかったのかも知れない。
マジョルカで残したインパクトは絶大だった。久保建英の評価はスペインをはじめヨーロッパで日に日に高まっている。その久保の才能を最初に見つけたのはバルセロナであった。
■久保の第一発見者
10歳でスペインに渡り、ラ・マシア(バルセロナの育成寮)で育った久保。当時、バルセロナはジョゼップ・グアルディオラ監督の下で黄金期を謳歌していた。リオネル・メッシ、アンドレス・イニエスタ、ピッチ上で躍動するアイドルたちに憧れない少年はいなかった。
だが2014年に状況が一変する。18歳未満の外国人選手獲得と登録に違反があったとされ、FIFAからバルセロナに処分が下される。詳細には、バルセロナがFIFAの移籍条項第19条の未成年者の国際移籍を禁止する規定に違反したというものだ。
FIFAが問題視したのは2009年から2013年の期間のバルセロナの育成年代の選手獲得・登録だった。当時、バルセロナのカンテラの10選手が被害を被る形で公式戦に出場できなくなった。そのうちの一人が、久保だった。「なぜプレーできないのか分からなかった」と久保自身が語っている時期である。
2015年3月に、久保は日本への帰国を余儀なくされる。それでも、FC東京に入り、日本代表に選出されるまでに成長した。だがプロ契約が可能になる18歳を迎えた久保を獲得したのはーーバルセロナではなく、マドリーだった。「タケが求めているのは勝利だけ」とスペイン『バングアルディア』に話すのは久保を"発見"したオスカル・エルナンデスだ。
「私が初めてタケを見たのはバルサのスクールでダイレクターを務めていた時です。福岡のサッカーキャンプに来ていました。1週間、120人の子供を見ましたが、彼はずば抜けていた。2010年4月にタケの情報をクラブに送りました。バルサのプロフィールを100%満たしている選手だと添えて」とオスカルが回想する。
ただ、オスカルに全員が同意したわけではない。「日本人選手を獲りたいと言われて、最初は冗談かと思った」と育成部門で働いていたアルベルト・プッチは笑いながらも正直に告白している。ただ、オスカル曰く、実際に久保を見たバルセロナのコーチングスタッフは「一日で納得した」という。